marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(361回目)ピューリタン 近代化の精神構造 Ⅲ (雑感)

2017-06-08 07:17:34 | 聖書・聖句
 ”和をもって尊しとなす”では、実は何も始まらないのです。日本では、この近代以降の宿題がきちんと卒業できているとは言えないのではなかろうか。第一、歴史認識が不明瞭である。知られてはいけない内容も多々あるから。つまり文字にできない裏のストーリーがあるから。
 ノーベル文学賞の川端康成は、美しい日本・・・、どこぞやの首相も以前の就任当時の出された本にそれらしき題名を書いておられたが・・・。しかし、同じ1994年ノーベル文学賞を採られた大江健三郎の記念講演の題は「あいまいな日本の私」であった。彼は、ウイリアム・ブレイクや「新しき人目覚めよ」などという聖書に起因するメタファーや言葉をその小説にしているものがある。俄然、途中から内容が困難になるけれど学生時代には結構、頭の訓練に読んだものです。ノーベル賞をもらった時に寝床に新聞を持ってきて起こされそれが日曜日だったような気がする。評論家の江藤淳さんは、大江健三郎のことは酷評しておりましたが。この辺になると脱線するのでやめます。
◆ピユーリタニズムの思想が危険だと書いたのは、まさに”すべてのしがらみから”抜け出して、神の前に立つということを意味する。これは、人間にとって不安になることである。そのとき、何を思い、何で自分を支えるかである。そのすべてのしがらみは、イエスは究極において、選択肢のできない自分の肉(聖書用語)にも大いにまとわりついてるものであるからそれを否定し、脱出し自由になれといっているのである(と僕には読みとれる)。不完全性「罪」からの解放、イエスは我らの罪の保釈料を自分の肉体を滅ぼすことによって、代替わりされチャラにしてくださったということなのである。したがって、個々人においては、この点を常に自覚し、内的に彼に向かって完成をめざして人生を歩みなさいということなのである。(ここにおいて、完成とか、完全とかそういうことを強調する教派もあるが一応、詳しく立ち入らない)、しがらみからの離脱についてのイメージは、レリーフに刻まれた人が(つまりレリーフとは下地平面がしがらみであり何らかの本人にも意識できない情念に作用し続けているといったらいいか、それが)ひとりひとり立ち上がり、三次元的な彫像になっていく段階をいう。つまり、何にも頼らず、立つとすれば聖書のみによって・・・そのように独り立ちし、自由を勝ち取っていく。
◆そのようなイギリスの歴史に対し、明治国家形成に大いに寄与した初代総理大臣伊藤博文は、そろって英国にも行ったにも拘わらず、その後日英同盟など結びつつは理解できるとしても、結局、明治憲法はプロイセン(ドイツ)路線を選んで結局第二次世界大戦には、大敗したのです。僕に言わせれば(後になれば何でも大上段に言えるが)世界を動かされている神の「摂理」を甘く見てはいけないですよ・・・ということだ。しかし、自国のアイデンティティーを持つには、あるいは国民に持たせるにはなんと難しいことなのだろう。
◆先に紹介した「日本国憲法原論」なのだが、この辺まで遡って人間に当てられたそもそもの法律とはどういう意味合いと歴史を持つのかをただ、農功民族だから天皇は国民の食い扶持を維持し得られるようにとの記念祭などから話を持って行かれると、まだ本当に日本国のアイデンティティーを持つためにまだまだだ改善の余地在りと思ってしまうのは僕だけだろうか・・・いや、いやピューリタンから言えば社会構造のの変革まではまだまだだなと思ってしまうのである。
◆聖書の神は、アベルの献げ物をよしとされたのであった。その答えはどこにも書かれていない。けれど、アベルとカインが牧畜民族と農耕民族として考えられるとしても、その当人の普段の生き続ける体制として何を普段に取り扱う対象を維持するには少なくともアベルには自然に任せて待ちの姿勢だけは持ち得なかったのだということは確かだったろう。つまり、世界に神の摂理を知らしめるには、創造されし人間は待ちではなく、主体的につたない頭脳で神とともに先のことを考えなくてはいけなかったのだし、そちらに神は重きを置いたのだと考えられ無くもないのである。・・ 続く