marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(367回目)新プロテスタンティズム:終章 未完のプロジェクトとして Ⅸ(雑感)

2017-06-14 18:33:21 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 359回目、ブログの終わりに新プロテスタンティズムのピューリタンとしての思想は危険な思想であると書いた。それは、煎じ詰めると宗教改革のさらなる徹底としてのまとわりつく宗教性からの脱出を図るとは言え、様々に分裂した宗教はまだしも、イエスからも抜けだし糸の切れた凧のようにならないかということだ。神学者大木英夫氏の「ピューリタン」を読むと世俗化を奨励しているように読める記事が終わりに見られる。しかし、これは真摯にキリストの言葉によって日々、考えの説明責任(アカウンタビリティー)をなしている人間にとっての理由のある書き方なのであって、決して宗教性から脱色といってもキリスト・イエスの事実からの解放や思考の拡散という意味での、いわゆる一般の世俗化という意味では決してないことである。
◆深井さんの紹介した著作で、リベラリズムとしての(新)プロテスタンティズムの章にバラク・オバマ大統領の就任講演の最後の言葉が掲載されて、彼は「この神は何であろうか」と言っている。キリスト教の神に似ているがキリスト教の神ではないと言い切っている。多民族国家でもあるから(異なる宗教をも肯定しているから)限定した物言いはしていないのだろう。(一部、バラクはメーソンの一員という話もあり、そうだとしても1ドル紙幣のようにアメリカ建国の父以来の考えをもって任期を果たしてきたのだろう。トランプさんは違うようだが)。いずれこの意識せざる国教(アメリカの)はキリスト教とは異なっているが意図せざる産物なのかもしれないと言っている。
◆そして終章の 未完のプロジェクトとして の中「プロテスタンティズムとは何であるか」において、深井氏はこのように述べている。
 「たしかに宗教改革からはじまったプロテスタンティズムの歴史の意義と特徴は、自由のための戦いも、近代世界の成立への貢献も含まれるが、それ以上に重要なもう一つの特徴は、社会の中で異なった価値や宗教を持つ者たちがどのように共存していけるかという作法を教えてくれるところにあるのではないだろうか。」 
 「ルターの出来事から始まった、価値の多元化、異なった宗派の共存状態、それ故に起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは、〔・・・〕どのようにすれば異なった宗派や分裂してしまった宗教が争う事なく共存できるのかという問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。〔・・・〕プロテスタンティズムが現代の社会に対して貢献できることの一つは共存の作法の提示であろう。(p206) 
◆さらに、プロテスタント原理の将来については、神学者パウル・テリッヒの言葉を紹介して次のように述べている。
「単に諸宗教あるいは諸宗派の一つとして並べられることを自らに許すことができない」という性格を持っている。けれども、「プロテスタント原理」の特徴は、プロテスタンティズムが「自分自身に拘束されない」という作法を持っていたことであるという。「このことによって真のプロテスタンティズムになる」。逆説が利きすぎた言い方なのであるが「プロテスタント原理は既存のプロテスタンティズムやキリスト教、あるいは宗教さえも拘束されることに対して抵抗する」のだという。テリッヒによればルターから生まれたプロテスタンティズムの戦いは歴史的に見れば一つの宗派の誕生であるが、それが生み出したプロテスタント原理というのは、自らの宗派にも担いきれないような大きな原理であり、自己批判と自己相対化の原理なのである。それはプロテスタンティズムが歴史から学んできた現実でもあった。真理を主張する自らのとなりには、また別の真理を主張する他者が存在するのである。何度もぶつかり合った後で、どうしたらこの他者との共存が可能になるかという努力を重ねてきたのである。プロテスタンティズム自体がこの歴史を裏切ってはならないはずである。(p207)
◆僕のこのブログは、「すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに」で始まった。自分というそもそもの土台は自分では選べない内に地上に命がある。イエスは自分の十字架を負って我に従えと言われた。僕らは自らからをも脱出して永遠の命に向かって前進するのである。・・・ Ω