marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(365回目)「新しい真理観」 近代化の精神構造 Ⅶ(雑感)

2017-06-12 21:44:52 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
  深井智明さんの「プロテスタンティズム-宗教改革から現代政治まで-」(中央新書 2017年3月25日初版)を読む。ルターの宗教改革から500年としてこれに合わせて出版?。 20日ほどで再版されているのですごい売れ方。表紙帯にマルチン・ルターさんのよく見られる絵と、”現代の保守主義とリベラリズムの源流”と書かれています。これはどういう意味かというと、宗教改革としてルターさんから始まったプロテスタントがその後、ご存じようにたくさんの教派に分裂、しかし、教会の制度自体はマルチンさんも政治機構から離脱したわけではなかった。僕らがいまでの時折、耳にする教派も当時から体制維持、それに対して大陸からイングランドを経由してアメリカ大陸を目指したピューリタンは、さらにそれらからも脱出をめざして自主独立の個人の自由を核として、共同体や社会などでは契約として結ばれるという、こちらをリベラリズムとしてのプロテスタンティズムと読んでいる分類。宗教改革以降、当然ルターはもとより、カルヴァンも深く学ばねばならないところだが、いわばその周辺事情を現代まで書かれており、初めての方は、いわゆるそういう知識から聖書に近づこうとすると、困難を覚えるかもしれない。それにしても分派で競争しあうのは、本当に人間とは救いようがない??駄目な生き物だ。アメリカ帰りの内村鑑三が無教会を設立したのはこういう理由からであったのだ。それにしても特に今のアメリカなど見ても・・・。
◆僕の主旨は、体制がどうの、社会状況が、歴史がどうの・・・などというより、それさえも”しがらみ”と思い、まずは第一に自分の言葉でヨハネ伝、パウロの手紙を読むことをお勧めする。いついかなる時もこれを優先します。イエスは、いつも今の僕らに語るのであるから。
◆それで、前回は「新しい人間」として書いたが、国のあり方、体制までのひっくり返し、個人の人権というものを契約思想まで徹底させて「宗教改革のさらなる改革の徹底」を目指したとしてピューリタンを述べました。実際、神学者大木英夫さんは、近代の精神構造、それは現代まで実際、様々の意味で影響をを及ぼして僕らが当たり前と思っている今の社会の仕組みを作り上げる基となったのはこの時に考え出された宗教改革のさらなる改革の徹底があったのだと述べています。つまり、その考えは宗教改革は完成すれば終わりというもではなく煎じ詰めればイエスの再臨まで、我々人類に課せられた留まる所のないイエスの業への真理への追究を課されているのであるという意味合いとなる。つまり行き着くところ神の似姿に創造された人間の問題ということになる。表に出ている部分は様々でも、通奏低音のように全世界を神の下に形成していく原動力となったと。
◆大木さんは、聖書の思想の独特の応用として詩人ジョン・ミルトンの『アレオパジティカ』(岩波文庫『言論の自由』を引き合いに出しています。*************
 真理は実際一度はその聖なる主キリストとともにこの世を訪れ、見るもいと輝かしき完全な姿であった。しかるに、主の昇天したまい、使徒らの主の後を追って死の眠りにつくや、直ちに欺瞞者らの邪悪の群れが起こり、エジプトのティフォンが一味の者と共に善良なオシリスを殺した物語にあるとおり、真理の処女を捉えて、彼女の美しい姿態を千々に斬り刻み、四方の風にまき散らしたのであった。そのときよりこの方、真理の味方として立ちあらわれたほどの人々は悲しみながらも、イシスの寸断された体を心配して探し求めた例にならい、手足一本一本見つけるに従って集めようとして歩きまわった。貴衆両院議員諸君、われわれはまだそれをことごとく見つけてはおらない。また真理の主の再臨までは決して全部を見つけることはないであろう。主はすべての間接や手足を一緒に合して、それをば善と完全との不滅の姿に作りたもうであろう。・・・・われわれの得た光がわれわれに与えられたのは絶えず見つめているためではなく、それによってさらに進んでわれわれの知識より遠く離れているものを発見するためである。・・・・世の中には教義の分裂や宗派争いのことを絶えずあざけって、誰かが自分の主義とは異にするのを大変な災難と考えている人がいる。その騒ぎをひき起こすのは、おとなしく人の言うことを聞こうともせず、人を信服させることもできないくせに、自分たちの綱領の中に見出されぬことはすべて禁止しなければならぬとするかれら自身の高慢と無智とのためである。真理の体に今なお欠けている離ればなれの肢体を結合することを自ら怠り、人にも許さない彼らこそ騒擾者であり、統一の破壊者なのである。*****************
◆イエスの再臨に至る中間時-その中に世界史がある-において決して真理の全体を把握することはできない。これをエジプト神話に例えて説明したのであるが、人間は結局真理の断片を捉えるばかりであり、大切なことはこれを手がかりとして、また、他者によって捉えた真理の断片との接合を試みて真理の全体へと接近することである。ここに不断の討論と探求の必要が出てくる・・・というのです。・・・ つづく