marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(640回)  キリスト教神学を少し・・・「悪の本質」(その3)

2020-03-07 19:15:44 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆のゴチック文が僕のコメントです。

(三)悪の本質

 悪は本来あるべきはずの所から現に脱落していることによって悪は悪となります。脱落行為です。具体的には神からの背離が「罪」となるのはその神が人間を愛しているときです。

愛を裏切るとき初めて罪は罪となります。神への服従とは神への応答愛に他ならないのです。人間は本来悪でなかったが脱落行為によって悪となりました。脱落以前に人間は「あるべきはずの状態にあった」ことを示し、脱落以後は人間が現実に「あるべきでないはずの状態にある」ことを示しています。

◆アンダーライン:誰がこのように分かるのでしょうか。思惟した神学者でしょうか。神はいつも人が「悪」の傾向を持ちつつもいつも人を愛されているのではないでしょうか。この地上の僕ら人の言葉では、罪の定義はできないように思います。むしろ、一般に言われる神の御心からの「的外れ」であると言われた方が、「人の生活の中での動きのある不完全さ」を示しているようで、理解されやすいかと思われます。あえて言えば、それは誰もが自分のこととして感じる怠慢、身体的劣化、あるいはパウロがテモテへの手紙で示したような諸々の不仲を生じさせる内容のものでしょう。善悪を知る判断が与えられておらず(悪を知らなかった)が故の、禁じられた戒めだけでは、この地上で独り立ちが困難であった。相対的に神の似姿とは、自分で善悪の判断をしなくてはならなくなった、という困難さが与えられた。それは、のちに悪魔が地上に落とされるであろう、その対抗としての重層化したドラマの中に投げ込まれ、イエスの再臨の時までその闘いが続いているという解釈です。そういう喘ぎが、自らを創造したもうた創造者である神を知るために、永遠の国への帰還のために必要であったという壮大なドラマが、イエスの再び来られるまで続いているのです。 ・・・続く 


世界のベストセラーを読む(639回)  キリスト教神学を少し・・・「キリスト教の人間観」(その2)

2020-03-07 19:11:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆のゴチック文が僕の返信した内容。************

(二)キリスト教の人間観

 キリスト教は「被造者としての人間」を捉えると共に「堕罪における人間」として捉えるのです。神が自然とは異なる創造をしたことは、神が自由な人間を創造したしたことであり、ひいては神が善への可能性と共に悪への可能性を持つ人間を創造したということです。人間の堕罪(FALL)とは人間が自由を悪に向かって行使したということです。人間は偶然に悪を選び取る行為によって自由に自己を規定したのです。この被規定性は人間にとって根源的な本質的なものとなりました。このような悪による根源的被規定性を「原罪」と呼ぶのです。創世記3章。

◆自然と一体なる人として創造されたにもかかわらず、自分の似姿に創造されたが故にそれほどまでに、結果としては「的はずれになってしまったが」それほどまでに自由を与え給うが程に人を愛されていた、と考えたいと思います。創造時点での堕落は、未だ「悪」ということさえしらなかった。禁じられていた「善悪を知る木」を食べた時点で目が開かれたということでしょう。よって外部からの(悪の)誘惑に乗り後戻りできなくなったという意味での「罪」であり、先に親を選べないようにと書きましたが、本人が意識はしなくともそういう根源的な「原罪」要素を我々の血肉は、内に引きずって遺伝的に命をつないで来ているのであると解釈したいと思います。 ・・・続く 

 


世界のベストセラーを読む(638回) キリスト教神学を少し・・・「キリスト教的人間観」(その1)

2020-03-07 19:01:31 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 635回の◆3っつめに紹介した、野呂芳男が称賛した神学者八木誠一の「新約思想の成立」(新教出版社)は、添付写真の本である。1960年代、神大の人々はこれを授業で受けた筈である。最近の若い方はおそらく学んでいないかも・・・。神学は作家佐藤優ではないが、面白いです、とても。ここで、631回に紹介した僕が東京への散歩の時、出会った退任牧師が時折、教会に呼ばれて講演をしている原稿を送ってくれたので、それにゴチックでコメントを書いて返信した内容を紹介します。講演があったその教会の方はおそらく僕のブログなどは見ていないだろうから・・・。***************

信仰を語る会1      2020・2・24   報告者:M.Y

キリスト教的人間観 (北森嘉造先生に学ぶ) ◆のゴチックが僕の返信です。いただいた文に割り込んで書いています。

 人間は規定者を持っている。この規定者を両親であると考えるだけでは不徹底です。両親もまた子供を生むことについて明確な意思決定をなしえずある偶然をそこに介入せざるを得ません。人間は生まれるのも生むのも被規定者であって創造者ではありません。子供が生まれ持つ素質については親もまた無力で被規定的存在だと認めざるを得ません。従って人間は生まれのも生むのも被規定的存在であって規定者ではありません。規定者は超人間的存在であると考えざるを得ないのです。

◆初めに:僕は、文章を読む時に「言葉の定義」にまず思いが及ぶようになりました。人が「神」を言語化するときに、それはどこまでいっても限定された中での言葉の用い方であって、人は「神」という方を制限のある機械的言語で表しきれないという制限の元にあることを知ります。というわけで、先生の言葉の内容と用い方は、仮説という意味で捉えて、という条件付きということになろうかと思います。この数行を語るときに、僕は自分が生まれるときも親を選べないのだ、遡りその親といえども、自分の親を選べないのである、とう解釈もできる。そこで、そこに規定者のわれわれには計り知れない仕組み(摂理)があるのであると。そのように考えてみたいと思います。

超人間的存在の考え方は二通りあります。

  1. 偶然にして盲目的な非人格的力と考える立場:人間は物理的・生理的には必然によって規定されているが人格的には全く偶然性と規定されている。このような必然性と偶然性とが混ざり合ったものが運命です。
  2. 人格的存在として考える立場:愛の意志を持って規定する立場

 キリスト教は人間の創造者としての神を愛として規定して(2)の立場をとっているのです。人間は自ら決断し自ら選び取って存在するのではなくこのような人格的愛の主体によって自己の存在を規定されて生まれ出るのです。無からの創造という教理は絶対的規定性を意味します。この意味は人間形成の現象的説明(科学的)ではなく意味についての説明です。自然科学は生物学的・生理学的に説明しその時には必然性が問われるのは不可避なことです。これを前面の思惟と呼びますとキリスト教の人間創造論は「背後の思惟」であり自然科学の現象的説明の背後にある本質的意味の説明を語るものです。

◆僕はあえて言えば、「表層の思惟」、「深層の思惟」と呼びたいと思います。パウロは「内なる人、外なる人」という言い方もしていますが、イエスの言葉の意味合いが、多層化して垂直次元でのそれぞれの各層から、その場面、場面で語られているように思われるのです。

 神は自己の愛を受け取る相手として世界と人間とを創造されたのです。世界一般は神の愛によって存在させられているにもかかわらずこの愛を自覚的に受け取ることをしません。人間だけが人格的な神の愛に人格的に応答出来るのです。 ・・・続く