marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(645回)  (その2)宗教改革は終わってはいない!「現代に生きる教会の使命」

2020-03-20 11:23:41 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

◆なぜか恐れおおい内容で表題をぶち上げてしまっているが、もともと僕がブログを始めた自己紹介に書いてある ”すべてのしがらみから解放されて” と言わんとしていることを 所謂、評論と神学論文ではどのように述べられているかを改めて紹介したい。まさに、その通りなのであると僕は、いまでも思う。だからブログを開始したのであるし納得しているのです。この日本国では、この地上の上に立ち、そこから生きる術を学び、当たり前の常識ごとき事は文字には残してはこなかったことも多くあろうけれど、地にすむ人々の生業(なりわい)にしっかり根付いてきた人々の歴史をこれからも代々伝えて行かねばならないと思うし、そうされるであろうことを信じている。この地球上の僕ら、少なくとも自分や自分に関わるすべてひとには「どんなことがあっても生き延びろ」とうメッセージを宣べ伝えていきたい。(ここで他人ごとは分からない、そのときには死にたいと願うものも出てくるのだから、そう思う人にはお節介だとおもわれるだろうから。)イエスは、宙ぶらりんに中に浮かんで聞くに心地よい事だけを語ったのでは決してないのだから。

ひとつめの評論は2016年6月11日(21回)で紹介した評論家、若松英輔著「イエス伝」である。表紙の文章のみ改めて書く。***「わたしのイエスは『教会』には留まらない。むしろ、そこに行くことをためらう人のそばに寄りそっている」***二つ目は2016年11月13日(176回目)新鋭の神学者W・パネンベルクの本の紹介である。そのブログの後半に記載。その本の題名が「現代に生きる教会の使命」である。まさに、僕が”しがらみ”と呼んでいるものが神学的に述べるとこうなるのだという思いなのです。*** 神のコトバとはどういうものか、真の神は居られるのに、我々にも声が掛けられているというのに・・・と、どのような人が心に思う浮かべるであろう疑問や思いに「教会外のキリスト教」と名付けて考察しているのです。

◆生きて働いておられ、すべての人を招いておられるイエスの言葉に、その歴史、伝統や教派的伝統があまりに、”しがらみ”を形成し、瘡蓋のようになり、その教会組織に依存して安穏としている中に、しかもキリスト教の維持にはそれに結びついて居なければ核心の保証がなしえないという現状に、会員であっても礼拝に出席ししない欧米の事情、あるいは日本の未信者にも実は、多くこういう”しがらみ”が意識として障害となっていること感じている人が多くいるのではないか・・・。

◆M・ルターの改革は「神の言葉をひとりひとりのものに!」であった。イエスのコトバにひとりとして対峙し語り合うこと、その不明なコトバ(不条理なコトバ)の中に自分なりの回答を得られるとき、それは尽きることが無い”大きな神からの恵み”というものに変換されるであろうことを信じる。自分の言葉で回答が得られること。例えば、イエスは弟子達に「信仰があれば、山でも動かせるのだ」と語られ、天に帰られたが、実際、霊的体験のような状態でしか地上においては出会うことがなかった使徒となったパウロは「預言の力、あらゆる知識、山を動かすほどの信仰があっても<愛>が無ければ全く無意味である」とコリントの人々にその真意を伝えたのです。(イエスの厳しい言葉に対して「基」と「派生」ということも神学的に考察したくなりますね。) 生きて働き、神からいただく人を活かすコトバというものはこういうものなのでしょう。・・・Ω