marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(642回)  キリスト教神学を少し・・・「救いとは」(その5 終わり)

2020-03-08 19:03:52 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆ゴチック文は僕の返信コメントです。今回で終わりです。

(五)救いとは

 脱落存在としての人間を再び神の愛の内へと戻させる神の働きです。人間が神の愛の「外」にあるが為にsomething wrongという矛盾が生じていたのですが、今や、人間が神の愛の「うち」へと回復されることによって矛盾が調和へと回復され「あるべきはずの状態」に戻されるのです。

 創世記3章に示された人間の原罪は人生の「はじめ」(出生)、なか(労働)、終わり(死)の全てに矛盾と問題が孕んでいるのですがその矛盾を残したままで救いの中に入れられるのです。羞恥心を伴わずにおれないような行為を通して生起した人間の出生は文字通り矛盾ですが脱落を内に包み込む神の愛に入れられることによって祝福に満ちた出来事として受け取られています。重荷として受け取られている労働もそれ自体は矛盾ですが脱落存在を内に包み込む神の愛に入れられることによって神の祝福に満ちた出来事として受け取られます。労働それ自体は神の罰として否定的な重荷の性格を持つことを素直に認めしかも人間を仲保する救い主によって再び神の愛の内へと回復されて労働が祝福に満ちたものに化せられるのです。最後に「罪の支払う報酬は死である」としての矛盾的性格において受け取られていた「死」も脱落存在を内に包み込む神の愛によってその姿を一変し、罪の刑罰であった死が神の御元へ帰るという帰郷の意識において受け取られるようになるのです。神の愛の内へと回復された信仰者も現象として(実生活においては)老・病・死の苦しみを経過します。しかし救いなき不信仰者においてはその状態が全てであるのに対して信仰者はこの矛盾的現象の背後に調和的な帰郷の意味を悟るのです。このような調和の光が背後にあることよってのみ私たちの日常生活は矛盾として認識されるのです。以上の説明をあくまで人間としての角度から見るという態度で語りながら、超越者としての神の光を映し出さざるを得なくなったのは飛躍や独断によってではなく「人間」という事柄そのものによって迫られたことなのです。

◆ここはエッセンスですね。未信者の方にイエスという方を受け容れてもらうために、どのように語りかけたらいいだろうといつも思います。ルターは神学には試練が必要だと言いました。肉体において困難が、それがあるときは心理学的にはストレスと呼ばれるものであったとしても、その中から神との会話を自分の言葉で模索する者は動かぬものを得るでしょう。僕は今、日本の隠されてきた古代史に興味をもっています。それは紀元前、捕囚にあったイスラエルの部族が東を目指して移動し、時代、時代それぞれの国に同化しながらも多くが、この日の昇る国に来ていたというものです。確かにそうだろうと僕は確信を持つようになりました。あの困難の中、神がパウロに語り掛けたように「恐れず語れ、この地には私の民が多くいるのである」と。・・・ 終わり 

 


世界のベストセラーを読む(641回)  キリスト教神学を少し・・・「悪の実態」(その4)

2020-03-08 18:44:25 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆ゴチック文は僕の返信です。

(四)悪の実態

 善とは神の真実の愛の内に留まりその愛に従って生きることですが、悪は神の真実の愛から脱落してその愛と全く違った愛に生きることです。悪の実態は虚偽の愛です。神の愛は無からの創造において象徴されます。無からの創造ということは神が自己の愛を与えて他者を立てるということです。他者たる人間は全く神から愛を与えられて存在にまでもたらされるのです。純粋に与える愛が「無からの創造」において示される愛です。与えることにおける純粋さが愛の真実を形成するのです。人間の脱落はこの神の愛からの脱落です。人間の愛には狂いが生じて来たのです。人間が相手に愛を与えるのは相手から奪うためです。相手の持っている価値を奪うのです。あくまでも自己が目的であって相手は手段です。相手を愛しているという心とそれによって自己を愛しているというもうひとつの心が二本になるのです。このような二心は愛の虚偽で悪の実態です。

◆「悪」の定義は難しいですね。それぞれ言葉で定義は言えるでしょうが、僕はそれぞれの定義をこの肉体で体験していないからです。しかし、これは誰でもが少し感じるところはあるのではないかと思っています。それは「悪霊」などという言葉を使うと、実は多くの人が感応するかもしれないと考えますが、なぜなら人は霊をもって生きているからです。砕けていえば「幽霊」の話は誰でもが異界の話として完全否定する人が少ないからですと言えましょうか。先生が書かれた悪の一例であって、その話は大著が書けそうな話になりそうです。イエスは明言します、「悪魔は人殺しである」と。どんな不完全な人でも、たとえ堕落した人であっても、自分の似姿に創造された神は被創造物、特に人をこよなく愛されているのです。その命を作られた人を自分の手下にして、すべての解体、分裂、抹殺することは悪魔の望むところだからです。「神」や「愛」の言葉の定義が難いように「罪」や「悪」という言葉も生きて動いている言葉ですから、定義が難しいですね。それから、この地上の肉の次元では、二心は苦しくなるでしょうが、むしろ僕は、先に述べた「表層意識」と「深層意識」の中での垂直次元での“ふた心”を進めたいと思っているのです。これは、他人という対象と比較し語る心ではなく、表層は通常の他者との会話であり、深層は神との会話です。あなたの隠れたところにおられる神に祈りなさい、がそれです。深層の神との会話は真の「汝と我」関係と言ってもいいでしょう。不完全な自分をいつも支えておられるその方との会話です。真の祈りが捧げられるところです。静かに心の奥底で語りかけられる、かの方の言葉です。僕はそのようなことを考えています。 ・・・ 続く