marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(369回目)「母の日」を制定した第28代アメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンのこと 

2017-06-18 20:35:18 | 聖書・聖句
 昨日18日は「父の日」6月の第三日曜日でした。「母の日」は5月第二日曜日は成り立ちもネットで見れますが、よく知れらています。これを制定したのは1914年時のアメリカ第28代大統領ウッドロウ・ウィルソンです。彼が、「母の日」(5月第二日曜日)を制定したのは母を思う特別の思いがあったからだと思います。
◆教会で子供たちへのお話の時間がもたれますが、そこで、彼についての次のようなお話が残されています。1950年代のお話なので古い言い回しです。「母の日」はアンナ・ジャービスさんが自分の母親に感謝してカーネーションを追悼記念に教会の皆さんに配ったことから始まったとのことですが、これを国の記念日に制定したウィルソンの母親に対する思いはひとしお強かったのだと思わされるエピソードです。
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 「金メダルはお母さんへ」
 五月の第二日曜日は「母の日」といって、お母さんのご恩を特別に感謝する日です。わたしたちはお母さんのご恩に深く感謝し、お母さんを、もっともっと大事にする人になりましょう。
 あるところに。貧乏なお母さんがありました。お父さんが早く死んで、たった一人の男の子があるばかり、お金もお道具も着物もありませんでした。
 お母さんは他の家のせんたくや裁縫をして暮らしを立てました。そして一人の息子を育てましたから、どんなに苦しかったかわかりません。そのうちに息子が学校へあがるようになりましたが、いつも成績がよくて一番。それから、だんだん進んで大学でも優等で、いよいよ卒業する時には、みんなを代表して卒業演説をすることになりました。
 「お母さん、いよいよ楽しい卒業の日が来ました。明日はぜひ卒業式に出かけてください。」
 けれど、お母さんは着物がありませんから、
 「せっかくだけれど、わたしは家にいましょうよ、みなさんがりっぱにしていらっしゃるだろうから・・・・。」
 「でも、お母さん、行ってください。わたしが卒業したのも、お母さんのおかげですから」と息子が言って、
 「着る物なんかどうでもかまいませんよ」と熱心に誘いました。
 そこで、お母さんは色のあせた型の古くなった着物を着て息子といっしょに出かけました。
 やがて式が始まり、順番が来て息子の卒業演説が始まりました。それは実にすばらしいもので、みんなが拍手して褒めました。そして一番りっぱな賞品の金メダルが授けられました。息子はその賞品を受け取るやいなや、お母さんのそばへかけていき、
 「お母さん、お母さん。これはあなたのものです。あなたのおかげで貰えたのです」
と言って、お母さんの胸につけてあげました。
 こうして息子は貧乏な粗末な身なりをしたお母さんを少しも恥ずかしいとは思いませんでした。
 これを見た何百人もの来賓や何百人もの学生は、涙を流して関心いたしました。この感心な息子はだれでしょう。それは後にアメリカ大統領になったウィルソンだったのです。
 
 「なに、ウィソンって聞いてような名前だ。そうそうアメリカの大きな汽船の名前!(1950代から60年代にかけて太平洋航路の汽船で名前が知られていた)」とおっしゃる方もあるでしょう。そうです。今(当時)アメリカと日本との間の太平洋航路に用いられているあのすばらしい汽船も大統領ウィルソンを記念してつけたものです。大統領ウィソンに負けないようにいたしましょう。
                    野辺地 天馬 (キリスト教例話集 児童伝道同志会編 CLC暮らしの光社 1979年)

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世界のベストセラーを読む(368回目)アメリカ建国の父 第三代大統領ジェファソンについて Ⅹ

2017-06-17 21:01:22 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 30年前に購入して読んで今一度ピンと来なかった本の内容が僕の中で繋がったので紹介したい。これは、僕が求めているピューリタンの神髄とも言うべく”すべてのしがらみからの解放”である。プロテスタントでも人が集団となれば弊害が生ずる。アメリカの政教分離は旧大陸とは異なり、さらに進んだプロテスタント諸宗派の権力派閥からの解放から起こってきたことになる。
◆深井智明著「プロテスタンティズム」(中央新書)については紹介しましたがその中で、次のような文書がありました。*******
 「太平洋を渡ったのはピューリタンと呼ばれる人々であったが、彼らは特定の教派ではなかった。ピューリタンには長老派、会衆派、バプテストやクェーカーまでさまざまなグループがある。もちろん、彼らそれぞれの宗教的な伝統をアメリカに持ち込んだが、そこで最終的に構築されたプロテスタントの特徴とは、国家や政治的に支配者に依存しない教会の設立という新プロテスタンティズムの伝統にあった。」(p168) *************
◆しかしながら、自由な宗教を求めたにも拘わらず、また、お互いが反目しあうようになる **********
 「人間とは不思議な存在である。かつて批判していた者たちから自由になり、自分が権力を手に入れるとかつて批判していた者たちの振る舞いを平気でやってみせる。〔・・・・・〕社会の形成の歴史はアイロニーに満ちている。アメリカに移住してきた者たちの中で長老派や会衆派のような主流派のような主流派の教会に批判され、それ故に主流教会に対して批判的であったのはバプテストやクェーカーだけではなかった。教会とは無縁であった、あるいは積極的に宗教的勢力とは関わらなかったが、制度的な教会が社会に及ぼす強い影響力が平等な社会を形成することを妨げていると考えていた政治的な合理主義者たちもまた、アメリカで主流派意識を持つようになった長老派や会衆派にとっては厄介者であった。厄介者とはトーマス・ジェファーソン(1743~1826)やジェームズ・マジソン(1751~1836)などのアメリカの政治的な父たちのことである。(p170~171)************* ここでどうして厄介者と言われているのか
◆それで、冒頭に述べたその本とは、故ジョン・F・ケネディ大統領が、ホワイトハウスにノーベル受賞者たちを招いて催した晩餐会で述べた有名な言葉、つまり、これほどの「卓越した才能と知識の集団」がこの場に集ったのは、ジェファソンがここでひとりで食事をして以来のことであると述べた、その人、第三代アメリカ大統領トーマス・ジェファーソンについて、かのアイデンティティーで有名なエリク・エリクソンの書いた「歴史のなかのアイデンティティー -ジェファソンと現代」(みすず書房1979年9月1日発行)である。
◆ジェファソンは1801年に民衆の圧倒的な支持を受け大統領に就任したが、つきものの中傷も彼の人間性や私生活、信仰に関してまでも攻撃を受けたのです。〔・・・・〕ジェファソンは「わたしは宗教については何も書かないだけでなく、滅多に話もしない。まして分別をわきまえた人間の集まり意外で話すことは決してしない」と述べています。〔・・・・〕事実、ジェファソンは生涯をとおしてキリスト教の公の行事や声高な宗派の論争を避け、いかなる聖職者の権力闘争にも組しなかったのです。「わたしは、腐敗したキリスト教というものが心底嫌いだ。しかし、イエス自身の純粋な教えは、それとは別だ。わたしはイエスが望んでいる意味でのみ、キリスト教徒だと言える。つまり、何にもましてイエスの教えを誠実に守り、人間のあらゆる優秀さが彼自身に由来するものであることを認め、主は、こうすること以外の何ものをも要求するものではないと信じている」とジェファソンは述べています。しかし、彼がこのようなはっきりした立場をとり得たのも聖書を慎重に精読して初めて可能なことだったのです。彼の慎重さは彼が身を置いた歴史的現実の中で人間としての完全さを求めた彼の闘いの特徴でもあった。〔・・・・〕こういう訳ですから、19世紀初頭アメリカ大統領が毎夕、ラテン語版、ギリシャ語版、仏語版、英語版の新約聖書を繙き、〔・・・〕どれがイエスの真の声として語りかけてくるか一行、一行自問している姿を思い浮かべて見る必要ががあるでしょう。彼は、こうした「本物」の部分を切り抜いてパンフレットを作り次のような題をつけたのでした。『ナザレ人イエスの哲学-マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネによる、イエスの生涯とその教えに関する記述からの抜粋。インディアンの理解を超える事実や信仰の煩わしさ記述抜きのインディアン用の新約聖書縮約版』と。 (p46-47 「山上の展望」から)
◆政治家であり、教育者、ナチュラリスト、建築家、聖書編集など、ジェファソンの思索と行為の全貌がギリシャ神プロテウスの変貌と例えられ新しい人間類型として書かれています。彼らのような人々の闘いが宗教性も異なる全世界の人々へも適応されるべく人類の普遍的なさまざまな制度を作り上げたきたのではないかと思われてきます。 ・・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(367回目)新プロテスタンティズム:終章 未完のプロジェクトとして Ⅸ(雑感)

2017-06-14 18:33:21 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 359回目、ブログの終わりに新プロテスタンティズムのピューリタンとしての思想は危険な思想であると書いた。それは、煎じ詰めると宗教改革のさらなる徹底としてのまとわりつく宗教性からの脱出を図るとは言え、様々に分裂した宗教はまだしも、イエスからも抜けだし糸の切れた凧のようにならないかということだ。神学者大木英夫氏の「ピューリタン」を読むと世俗化を奨励しているように読める記事が終わりに見られる。しかし、これは真摯にキリストの言葉によって日々、考えの説明責任(アカウンタビリティー)をなしている人間にとっての理由のある書き方なのであって、決して宗教性から脱色といってもキリスト・イエスの事実からの解放や思考の拡散という意味での、いわゆる一般の世俗化という意味では決してないことである。
◆深井さんの紹介した著作で、リベラリズムとしての(新)プロテスタンティズムの章にバラク・オバマ大統領の就任講演の最後の言葉が掲載されて、彼は「この神は何であろうか」と言っている。キリスト教の神に似ているがキリスト教の神ではないと言い切っている。多民族国家でもあるから(異なる宗教をも肯定しているから)限定した物言いはしていないのだろう。(一部、バラクはメーソンの一員という話もあり、そうだとしても1ドル紙幣のようにアメリカ建国の父以来の考えをもって任期を果たしてきたのだろう。トランプさんは違うようだが)。いずれこの意識せざる国教(アメリカの)はキリスト教とは異なっているが意図せざる産物なのかもしれないと言っている。
◆そして終章の 未完のプロジェクトとして の中「プロテスタンティズムとは何であるか」において、深井氏はこのように述べている。
 「たしかに宗教改革からはじまったプロテスタンティズムの歴史の意義と特徴は、自由のための戦いも、近代世界の成立への貢献も含まれるが、それ以上に重要なもう一つの特徴は、社会の中で異なった価値や宗教を持つ者たちがどのように共存していけるかという作法を教えてくれるところにあるのではないだろうか。」 
 「ルターの出来事から始まった、価値の多元化、異なった宗派の共存状態、それ故に起こる対立や紛争の中で、プロテスタンティズムは、〔・・・〕どのようにすれば異なった宗派や分裂してしまった宗教が争う事なく共存できるのかという問題と取り組んできたこと、これこそがプロテスタンティズムの歴史であり、現代社会における貢献なのではないだろうか。〔・・・〕プロテスタンティズムが現代の社会に対して貢献できることの一つは共存の作法の提示であろう。(p206) 
◆さらに、プロテスタント原理の将来については、神学者パウル・テリッヒの言葉を紹介して次のように述べている。
「単に諸宗教あるいは諸宗派の一つとして並べられることを自らに許すことができない」という性格を持っている。けれども、「プロテスタント原理」の特徴は、プロテスタンティズムが「自分自身に拘束されない」という作法を持っていたことであるという。「このことによって真のプロテスタンティズムになる」。逆説が利きすぎた言い方なのであるが「プロテスタント原理は既存のプロテスタンティズムやキリスト教、あるいは宗教さえも拘束されることに対して抵抗する」のだという。テリッヒによればルターから生まれたプロテスタンティズムの戦いは歴史的に見れば一つの宗派の誕生であるが、それが生み出したプロテスタント原理というのは、自らの宗派にも担いきれないような大きな原理であり、自己批判と自己相対化の原理なのである。それはプロテスタンティズムが歴史から学んできた現実でもあった。真理を主張する自らのとなりには、また別の真理を主張する他者が存在するのである。何度もぶつかり合った後で、どうしたらこの他者との共存が可能になるかという努力を重ねてきたのである。プロテスタンティズム自体がこの歴史を裏切ってはならないはずである。(p207)
◆僕のこのブログは、「すべてのしがらみから解放されて永遠の命を与える神の言葉をひとりひとりのものに」で始まった。自分というそもそもの土台は自分では選べない内に地上に命がある。イエスは自分の十字架を負って我に従えと言われた。僕らは自らからをも脱出して永遠の命に向かって前進するのである。・・・ Ω 

世界のベストセラーを読む(366回目)リベラリズムとしてのプロテスタンティズム Ⅷ(雑感)

2017-06-13 07:06:35 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
前回の深井智明さんの著作の続き・・・
ルターが宗教改革を行った(実際は本来のあるべき姿を神学的に問うた)にもかかわらず、聖書をひとりひとりが自分の言葉で読むことができるようになると、それをまた体系化して神学として組織論まで高めたのがカルヴァンさんでこの方なくては宗教改革は歴史に残ったかどうかだが、それがまた、時代が降ると様々な宗派に分かれて、お互いを拘束し始めるということに・・・それを保守(古)プロテスタンティティズムとして分類。本来、それらの宗教臭さから脱却するはずではということで、それをエイヤーとやったのがピューリタンでアメリカ大陸に飛びだしたこれをリベラリズム(新)のプロテスタンティズムと一応分類したのでした。現在のアメリカはかなり人間臭くなって、本来の清教徒の初期開拓精神スピリットからは遠く離れているようだが、本来は人間世界からも脱出という聖書の精神が息づいているもので、前回紹介の詩人ミルトンなどの見解は、今読んでも論文講義のテキストにでも採用されてもおかしくないような文章であると思う。
◆つまり、宗教改革のさらなる改革の徹底とは、どうしても人が集まればこれまた教派という”しがらみ”に気を遣うようになるので、神の創造されたこの地上のあらゆるすべての人間に対等に神の恩恵の理解がされなければいけないとかなり先を見込んだ考えであった訳です。(ですから、ここで伏線でまた、フリーメーソンのことを書くが、そのシンボルマークは1ドル紙幣の国璽マークとなっている訳は、すべての宗教を超越した最高神を信じて入れば、自由、平等、博愛を信条としていたのであるから、すべての人を受け入れる、これからの普遍的なしかし、将来の隠れた制度をもたらそうとしていたことが推察できる訳です。(例えば、普遍的な人権という思想など)
 敗戦国、日本の憲法はこのような流れの人が関与したものなのですね。ですから、日本国憲法は、普遍的な意味あいの内容が持ち込まれているのです。
◆保守主義としてのプロテスタンティズムの章に森鴎外が当時のドイツの神学事情を述べているところを面白く読んだ。日本と言えば神学などの言葉すら何だろうという具合の時代状況。それは今にも影響を及ぼしていることになるわけですね。キリスト教の宣教は、アメリカからが多く影響を受けたにも拘わらず、神学などのキリスト教はドイツのかなりの影響を受けているのは、日本が天皇制を仰いでいるので英米よりはドイツに親近性を見出したからなのだろうか。
◆このリベラルな考えは、メーソンと言わず現在までその仕組みとしての考え方があらゆる事柄に仕組みとして入り込んでいると考えられる。昨年8月16日の95回目のブログを読んで欲しい。ISO9001という品質システムの要求事項(これはものつくりの品質システムの認証である)には、アカウンタビリティー(説明責任)という言葉がきちんと書かかれている(英語も表記)。これは、深井氏によってもきちんと神学用語であると書かれている。(p185)まさに、宗教臭さ、しがらみからの脱出が今や垢抜けして、すべての人が健康で、安全に、また合理的な生産などにも転用されそのシステムとして全人類に普遍性をもたらし始めているのである
◆とすれば、そこに生きる「新しい人間」は、常に生まれつきを選べない選択肢の中で、自分の十字架を負って、自らの「呪術からの解放」を目指して、永遠の命を持つイエスと同時性を持っていついかなる時も生きなければ、これからは生き延びていくのは非常に困難な時代になっていくと思われるのである。(と僕は思っている)
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 「アメリカの企業では、アカウンタビリティーという言葉がしばしば用いられる。日本では説明責任と訳されるが、企業や学校は常に自らの業務について説明責任性が求められる。そしてこの原則は説明できないことはしないという行動の基準や倫理性を生み出す。これもまた新プロテスタンティズム的なセンスであろう。アカウンタビリティーとは神学用語である。神の前での最後の審判に於いて、人間が天国行きの最終決定を受けるために自分の人生についてのアカウンタビリティーである。神の前に人生を説明してみせるのである。神はそれにもとづいて判断するのであるが、人間にとっては、このときに神の前で言えないような事は自分の人生の中でさまざまな決断の際しないことになるので、まさに人間の行動の倫理規範になる。それだけではない。これはまさに最終的なアカウンタビリティーであるが、ピューリタンは毎日、信仰日記というものを書くようになる。そして、自分の一日の生活を振り返るのである。いわば、この信仰の習慣の世俗化版が企業のアカウンタビリティーなのであろう。」(P185)「プロテスタンティズム」(深井智明著 中公新書)・・・ 近々お会いするのでサインをこの本にもらおうと思う。  ・・・ Ω                                                                                                                                                                                                                                         

世界のベストセラーを読む(365回目)「新しい真理観」 近代化の精神構造 Ⅶ(雑感)

2017-06-12 21:44:52 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
  深井智明さんの「プロテスタンティズム-宗教改革から現代政治まで-」(中央新書 2017年3月25日初版)を読む。ルターの宗教改革から500年としてこれに合わせて出版?。 20日ほどで再版されているのですごい売れ方。表紙帯にマルチン・ルターさんのよく見られる絵と、”現代の保守主義とリベラリズムの源流”と書かれています。これはどういう意味かというと、宗教改革としてルターさんから始まったプロテスタントがその後、ご存じようにたくさんの教派に分裂、しかし、教会の制度自体はマルチンさんも政治機構から離脱したわけではなかった。僕らがいまでの時折、耳にする教派も当時から体制維持、それに対して大陸からイングランドを経由してアメリカ大陸を目指したピューリタンは、さらにそれらからも脱出をめざして自主独立の個人の自由を核として、共同体や社会などでは契約として結ばれるという、こちらをリベラリズムとしてのプロテスタンティズムと読んでいる分類。宗教改革以降、当然ルターはもとより、カルヴァンも深く学ばねばならないところだが、いわばその周辺事情を現代まで書かれており、初めての方は、いわゆるそういう知識から聖書に近づこうとすると、困難を覚えるかもしれない。それにしても分派で競争しあうのは、本当に人間とは救いようがない??駄目な生き物だ。アメリカ帰りの内村鑑三が無教会を設立したのはこういう理由からであったのだ。それにしても特に今のアメリカなど見ても・・・。
◆僕の主旨は、体制がどうの、社会状況が、歴史がどうの・・・などというより、それさえも”しがらみ”と思い、まずは第一に自分の言葉でヨハネ伝、パウロの手紙を読むことをお勧めする。いついかなる時もこれを優先します。イエスは、いつも今の僕らに語るのであるから。
◆それで、前回は「新しい人間」として書いたが、国のあり方、体制までのひっくり返し、個人の人権というものを契約思想まで徹底させて「宗教改革のさらなる改革の徹底」を目指したとしてピューリタンを述べました。実際、神学者大木英夫さんは、近代の精神構造、それは現代まで実際、様々の意味で影響をを及ぼして僕らが当たり前と思っている今の社会の仕組みを作り上げる基となったのはこの時に考え出された宗教改革のさらなる改革の徹底があったのだと述べています。つまり、その考えは宗教改革は完成すれば終わりというもではなく煎じ詰めればイエスの再臨まで、我々人類に課せられた留まる所のないイエスの業への真理への追究を課されているのであるという意味合いとなる。つまり行き着くところ神の似姿に創造された人間の問題ということになる。表に出ている部分は様々でも、通奏低音のように全世界を神の下に形成していく原動力となったと。
◆大木さんは、聖書の思想の独特の応用として詩人ジョン・ミルトンの『アレオパジティカ』(岩波文庫『言論の自由』を引き合いに出しています。*************
 真理は実際一度はその聖なる主キリストとともにこの世を訪れ、見るもいと輝かしき完全な姿であった。しかるに、主の昇天したまい、使徒らの主の後を追って死の眠りにつくや、直ちに欺瞞者らの邪悪の群れが起こり、エジプトのティフォンが一味の者と共に善良なオシリスを殺した物語にあるとおり、真理の処女を捉えて、彼女の美しい姿態を千々に斬り刻み、四方の風にまき散らしたのであった。そのときよりこの方、真理の味方として立ちあらわれたほどの人々は悲しみながらも、イシスの寸断された体を心配して探し求めた例にならい、手足一本一本見つけるに従って集めようとして歩きまわった。貴衆両院議員諸君、われわれはまだそれをことごとく見つけてはおらない。また真理の主の再臨までは決して全部を見つけることはないであろう。主はすべての間接や手足を一緒に合して、それをば善と完全との不滅の姿に作りたもうであろう。・・・・われわれの得た光がわれわれに与えられたのは絶えず見つめているためではなく、それによってさらに進んでわれわれの知識より遠く離れているものを発見するためである。・・・・世の中には教義の分裂や宗派争いのことを絶えずあざけって、誰かが自分の主義とは異にするのを大変な災難と考えている人がいる。その騒ぎをひき起こすのは、おとなしく人の言うことを聞こうともせず、人を信服させることもできないくせに、自分たちの綱領の中に見出されぬことはすべて禁止しなければならぬとするかれら自身の高慢と無智とのためである。真理の体に今なお欠けている離ればなれの肢体を結合することを自ら怠り、人にも許さない彼らこそ騒擾者であり、統一の破壊者なのである。*****************
◆イエスの再臨に至る中間時-その中に世界史がある-において決して真理の全体を把握することはできない。これをエジプト神話に例えて説明したのであるが、人間は結局真理の断片を捉えるばかりであり、大切なことはこれを手がかりとして、また、他者によって捉えた真理の断片との接合を試みて真理の全体へと接近することである。ここに不断の討論と探求の必要が出てくる・・・というのです。・・・ つづく