marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(641回)  キリスト教神学を少し・・・「悪の実態」(その4)

2020-03-08 18:44:25 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆ゴチック文は僕の返信です。

(四)悪の実態

 善とは神の真実の愛の内に留まりその愛に従って生きることですが、悪は神の真実の愛から脱落してその愛と全く違った愛に生きることです。悪の実態は虚偽の愛です。神の愛は無からの創造において象徴されます。無からの創造ということは神が自己の愛を与えて他者を立てるということです。他者たる人間は全く神から愛を与えられて存在にまでもたらされるのです。純粋に与える愛が「無からの創造」において示される愛です。与えることにおける純粋さが愛の真実を形成するのです。人間の脱落はこの神の愛からの脱落です。人間の愛には狂いが生じて来たのです。人間が相手に愛を与えるのは相手から奪うためです。相手の持っている価値を奪うのです。あくまでも自己が目的であって相手は手段です。相手を愛しているという心とそれによって自己を愛しているというもうひとつの心が二本になるのです。このような二心は愛の虚偽で悪の実態です。

◆「悪」の定義は難しいですね。それぞれ言葉で定義は言えるでしょうが、僕はそれぞれの定義をこの肉体で体験していないからです。しかし、これは誰でもが少し感じるところはあるのではないかと思っています。それは「悪霊」などという言葉を使うと、実は多くの人が感応するかもしれないと考えますが、なぜなら人は霊をもって生きているからです。砕けていえば「幽霊」の話は誰でもが異界の話として完全否定する人が少ないからですと言えましょうか。先生が書かれた悪の一例であって、その話は大著が書けそうな話になりそうです。イエスは明言します、「悪魔は人殺しである」と。どんな不完全な人でも、たとえ堕落した人であっても、自分の似姿に創造された神は被創造物、特に人をこよなく愛されているのです。その命を作られた人を自分の手下にして、すべての解体、分裂、抹殺することは悪魔の望むところだからです。「神」や「愛」の言葉の定義が難いように「罪」や「悪」という言葉も生きて動いている言葉ですから、定義が難しいですね。それから、この地上の肉の次元では、二心は苦しくなるでしょうが、むしろ僕は、先に述べた「表層意識」と「深層意識」の中での垂直次元での“ふた心”を進めたいと思っているのです。これは、他人という対象と比較し語る心ではなく、表層は通常の他者との会話であり、深層は神との会話です。あなたの隠れたところにおられる神に祈りなさい、がそれです。深層の神との会話は真の「汝と我」関係と言ってもいいでしょう。不完全な自分をいつも支えておられるその方との会話です。真の祈りが捧げられるところです。静かに心の奥底で語りかけられる、かの方の言葉です。僕はそのようなことを考えています。 ・・・ 続く 


世界のベストセラーを読む(640回)  キリスト教神学を少し・・・「悪の本質」(その3)

2020-03-07 19:15:44 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆のゴチック文が僕のコメントです。

(三)悪の本質

 悪は本来あるべきはずの所から現に脱落していることによって悪は悪となります。脱落行為です。具体的には神からの背離が「罪」となるのはその神が人間を愛しているときです。

愛を裏切るとき初めて罪は罪となります。神への服従とは神への応答愛に他ならないのです。人間は本来悪でなかったが脱落行為によって悪となりました。脱落以前に人間は「あるべきはずの状態にあった」ことを示し、脱落以後は人間が現実に「あるべきでないはずの状態にある」ことを示しています。

◆アンダーライン:誰がこのように分かるのでしょうか。思惟した神学者でしょうか。神はいつも人が「悪」の傾向を持ちつつもいつも人を愛されているのではないでしょうか。この地上の僕ら人の言葉では、罪の定義はできないように思います。むしろ、一般に言われる神の御心からの「的外れ」であると言われた方が、「人の生活の中での動きのある不完全さ」を示しているようで、理解されやすいかと思われます。あえて言えば、それは誰もが自分のこととして感じる怠慢、身体的劣化、あるいはパウロがテモテへの手紙で示したような諸々の不仲を生じさせる内容のものでしょう。善悪を知る判断が与えられておらず(悪を知らなかった)が故の、禁じられた戒めだけでは、この地上で独り立ちが困難であった。相対的に神の似姿とは、自分で善悪の判断をしなくてはならなくなった、という困難さが与えられた。それは、のちに悪魔が地上に落とされるであろう、その対抗としての重層化したドラマの中に投げ込まれ、イエスの再臨の時までその闘いが続いているという解釈です。そういう喘ぎが、自らを創造したもうた創造者である神を知るために、永遠の国への帰還のために必要であったという壮大なドラマが、イエスの再び来られるまで続いているのです。 ・・・続く 


世界のベストセラーを読む(639回)  キリスト教神学を少し・・・「キリスト教の人間観」(その2)

2020-03-07 19:11:01 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

・・・続きです。 ◆のゴチック文が僕の返信した内容。************

(二)キリスト教の人間観

 キリスト教は「被造者としての人間」を捉えると共に「堕罪における人間」として捉えるのです。神が自然とは異なる創造をしたことは、神が自由な人間を創造したしたことであり、ひいては神が善への可能性と共に悪への可能性を持つ人間を創造したということです。人間の堕罪(FALL)とは人間が自由を悪に向かって行使したということです。人間は偶然に悪を選び取る行為によって自由に自己を規定したのです。この被規定性は人間にとって根源的な本質的なものとなりました。このような悪による根源的被規定性を「原罪」と呼ぶのです。創世記3章。

◆自然と一体なる人として創造されたにもかかわらず、自分の似姿に創造されたが故にそれほどまでに、結果としては「的はずれになってしまったが」それほどまでに自由を与え給うが程に人を愛されていた、と考えたいと思います。創造時点での堕落は、未だ「悪」ということさえしらなかった。禁じられていた「善悪を知る木」を食べた時点で目が開かれたということでしょう。よって外部からの(悪の)誘惑に乗り後戻りできなくなったという意味での「罪」であり、先に親を選べないようにと書きましたが、本人が意識はしなくともそういう根源的な「原罪」要素を我々の血肉は、内に引きずって遺伝的に命をつないで来ているのであると解釈したいと思います。 ・・・続く 

 


世界のベストセラーを読む(638回) キリスト教神学を少し・・・「キリスト教的人間観」(その1)

2020-03-07 19:01:31 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 635回の◆3っつめに紹介した、野呂芳男が称賛した神学者八木誠一の「新約思想の成立」(新教出版社)は、添付写真の本である。1960年代、神大の人々はこれを授業で受けた筈である。最近の若い方はおそらく学んでいないかも・・・。神学は作家佐藤優ではないが、面白いです、とても。ここで、631回に紹介した僕が東京への散歩の時、出会った退任牧師が時折、教会に呼ばれて講演をしている原稿を送ってくれたので、それにゴチックでコメントを書いて返信した内容を紹介します。講演があったその教会の方はおそらく僕のブログなどは見ていないだろうから・・・。***************

信仰を語る会1      2020・2・24   報告者:M.Y

キリスト教的人間観 (北森嘉造先生に学ぶ) ◆のゴチックが僕の返信です。いただいた文に割り込んで書いています。

 人間は規定者を持っている。この規定者を両親であると考えるだけでは不徹底です。両親もまた子供を生むことについて明確な意思決定をなしえずある偶然をそこに介入せざるを得ません。人間は生まれるのも生むのも被規定者であって創造者ではありません。子供が生まれ持つ素質については親もまた無力で被規定的存在だと認めざるを得ません。従って人間は生まれのも生むのも被規定的存在であって規定者ではありません。規定者は超人間的存在であると考えざるを得ないのです。

◆初めに:僕は、文章を読む時に「言葉の定義」にまず思いが及ぶようになりました。人が「神」を言語化するときに、それはどこまでいっても限定された中での言葉の用い方であって、人は「神」という方を制限のある機械的言語で表しきれないという制限の元にあることを知ります。というわけで、先生の言葉の内容と用い方は、仮説という意味で捉えて、という条件付きということになろうかと思います。この数行を語るときに、僕は自分が生まれるときも親を選べないのだ、遡りその親といえども、自分の親を選べないのである、とう解釈もできる。そこで、そこに規定者のわれわれには計り知れない仕組み(摂理)があるのであると。そのように考えてみたいと思います。

超人間的存在の考え方は二通りあります。

  1. 偶然にして盲目的な非人格的力と考える立場:人間は物理的・生理的には必然によって規定されているが人格的には全く偶然性と規定されている。このような必然性と偶然性とが混ざり合ったものが運命です。
  2. 人格的存在として考える立場:愛の意志を持って規定する立場

 キリスト教は人間の創造者としての神を愛として規定して(2)の立場をとっているのです。人間は自ら決断し自ら選び取って存在するのではなくこのような人格的愛の主体によって自己の存在を規定されて生まれ出るのです。無からの創造という教理は絶対的規定性を意味します。この意味は人間形成の現象的説明(科学的)ではなく意味についての説明です。自然科学は生物学的・生理学的に説明しその時には必然性が問われるのは不可避なことです。これを前面の思惟と呼びますとキリスト教の人間創造論は「背後の思惟」であり自然科学の現象的説明の背後にある本質的意味の説明を語るものです。

◆僕はあえて言えば、「表層の思惟」、「深層の思惟」と呼びたいと思います。パウロは「内なる人、外なる人」という言い方もしていますが、イエスの言葉の意味合いが、多層化して垂直次元でのそれぞれの各層から、その場面、場面で語られているように思われるのです。

 神は自己の愛を受け取る相手として世界と人間とを創造されたのです。世界一般は神の愛によって存在させられているにもかかわらずこの愛を自覚的に受け取ることをしません。人間だけが人格的な神の愛に人格的に応答出来るのです。 ・・・続く 

 


世界のベストセラーを読む(637回) (その9)新型コロナウィルス ②カミュの「ペスト」の一場面なら 

2020-03-06 09:12:43 | 日記

タルー(T)とリウー(R)の会話は続く**********

(T)「なぜ、あなた自身は、献身的にやるんですか、神を信じていないといわれるのに? あなたの答えによって、あるいはわたしも答えられるようになるんですがね」陰のなかから出ようとはせず、医師(R)は、すでに答えたことで、もし自分が全能の神というものを信じていたら、人々を治療することはやめて、そんな心配はそうなれば神に任せてしまうだろう、といった。しかし、世に何びとも、たといそれを信じていると信じているバヌール(神父)といえども、かかる種類の神を信じてはいないのであって、その証拠には何びとも完全に自分をうち任せてしまうということはしないし、そして少なくともこの点においては、彼リウーも、あるがままの被創造世界と戦うことによって、真理の路上にあると信じているのだ。(p-149)・・・********ここまで(アンダーラインは僕)

◆ここからは、僕の論。神学者野呂芳男の「実存論的神学 民衆の神キリスト」の中の初期論文で、カミュを肯定したニュアンスが、この箇所からも少しく理解されるであろうと思われる。そして、時代は1946年に発表されたといっても中世的階級という制限と世界が今のように同時に知られるような時代ではなかったにせよ、2020年の今でもそれらの組織的在り方と説教の聖書解釈に、そのしがらみに甘え依存して、引きずられている人というありようについて、そんな神なら信じない(先ブログの医師リウーの言葉)とカミュは言わしめているのである。プロテスタントとカトリックの相違でもあるが、プロテスタントと言えどもその領域から抜けきれない。だから神学者は、今も言葉で闘っているのだと言えるのだが・・・・その視点が問題となるように思われる。

◆隣国、韓国で感染者が4000人以上となり、その7割が大邱(テグ)。感染の6割にあたるのが信仰宗教団体「新天地イエス教会」で発生したものなのだとか。ソウル市は感染拡大防止に協力しなかったといって同教会イ・マンヒ教主を殺人罪などの容疑で告発した(日経新聞:国際面)。まさか、神は教会に集う人には災害は免れたもうなどという説教をやったのではあるまいな。一体、韓国という国の民族性、国民性は、日本国に対する政治的対応に対してもどういうものなのだろう。日本の国民性と非常に違和感を覚えるような民衆の感覚のズレが、こういう大変な事態にも表れてきているように思われて仕方がない。政治に影響を与えるその国の民衆の宗教性についても、”民主主義を壊すのは民主主義”であるという意味について(正義と思えば一斉に合意するそのオーバーヒートする気質について)、組織体と個人の責任のありようについて深く見つめなおさなくてはいけないのではないか。日本の教会はその大衆の熱心さにおいて韓国のキリスト教界を称賛する。しかし、その根はどこから来ているのだろうか。我らの闘う視点は(観点は)、もっと一人ひとりの身近にある、目で見て、手で触れてわかるところにあるのである。(ヨハネの手紙1:1) ・・・ 続く