トロルお爺の”Satoyaman”林住記

生物生産緑地にて里山栗栄太が記す尻まくりワールド戯作帳

迷いの森にようこそ

2024-06-21 | お倉入り

 本ブログのタイトルもそろそろ変更せねばと思う今日この頃である。既に「迷いの時期」は通り過ぎて「耄碌の時期」に入っているだろう。「林住記」だって「臨終期」にした方が適切かも知れないのだがそれはそれ、人生、しぶとさも必要である。「心頭滅却すれば火もまた涼し」なんて達観出来る小生でも無いのだが我が人生、三十代から冬の頭頂は涼しく夏の頭頂は熱かったのだったが出世街道は遂に登頂ならずだヤレヤレ。まあ、だからこそしぶといよりも往生際が悪いに近い。その上、老齢になるほど記憶は遡っていく感覚があるのだが下記の詩を見る限りでも古今東西、そういう感覚は珍しくもないのだと言う事を感じた。

 小生の古い記憶は「姉に負ぶわれて遊びの輪の中に居た」事であるが年齢は不明だ。明確なのは妹の出産時で、これは寝屋で分娩の頃と産湯を使わせているのを弟と見ていた記憶で5歳時である。少年期では2学年だけ同級だった転校生Fちゃんの記憶で、どうして今頃になって現れるのか理由が不明なのだが懐かしい。

    花を看て老いを嘆じ年少を憶い

    酒に対し家を思い老翁を愁う  宋・蘇軾(東坡)「安国寺に春を尋ぬ」

 

 さて、日の本に「兵満つ」状況は無いと言えるだろうが災害溢れる現状では復旧の兵が必須だろう。今回の能登半島の大災害にしても戦乱とは異なるものの、ある意味総力戦でもあると思っているのだが行政の動きは鈍く感じられてならない。端的に言うなれば「リスクが低い」と言う予断は科学では無かったといえるものの、それらをベースにした構想準備ではある意味、致し方なかったのかもしれない。東日本大震災の折にはアキレス腱断絶さえ無ければ支援に行けたのだったが今回は気持ちがあっても身体が伴わぬ。時の経過を感じない訳にはいかない今日この頃であるし、ブログの耄碌さも進むのであろう。それでも豪雪地帯で育った小生としては春の兆しは喜びの最たるものの暖地である当地では春の喜びはぬるま湯に浸っている感覚に近い。

    天下 兵満つと雖も

    春光 日びに濃やかなり  唐・杜甫「春を傷む」