住職のひとりごと

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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④

2024年06月09日 12時51分30秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約④





第四章 証果
 求めるべき真理を明らかにし、そのために発心して戒定慧の修行により、ついに煩悩を断じて菩提を証得し涅槃に到る、これを証果という。三学に小乗大乗があるように、証果にも小乗の証果、大乗の証果の別がある。

 第一節 小乗の証果
 小乗の証果に、声聞と縁覚と仏果との別がある。

第一、声聞の果位 四向四果の別があり、この八位とは、預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果であり、初めの二位は見惑(我見をもととする身見、辺見、見取見、戒禁取見、邪見)を断ずる十六心のうち十五心までを断ずるのが預流向で、預流果は第十六心を断じ、見惑を断じ尽くし四諦の真理を証得して得られる。のちの六位は思惑を断じて得られる。
 欲界の思惑に九品があり、その六品までを断じて一来向があり、六品を既に断じたる位を一来果という。さらに欲界の九品までを断じて不還向があり、九品を断じて欲界に生ずべき因尽きた位を不還果という。色界の四禅定と無色界の四空定の八地にある微細の煩悩を断じつつ阿羅漢向があり、断じ尽して阿羅漢果となる。阿羅漢とは無生との意味であり、三界の生死輪廻を解脱して寿命を終えた後には再生することはない。阿羅漢となりてまだ寿命ある間はこれを有餘依涅槃といい、身あることによる苦果を受けるものとみる。一期の寿命尽きると無餘依涅槃といい、生死を絶して一切の苦楽から離れ煩悩により苦悩することがない。

 阿羅漢果を得たのちは、苦楽から離れ煩悩に纏われることがないがために自由自在となり五神通を発得するという。五神通とは、一に天眼通は、自他一切の衆生の生死輪廻の様子を見るほか、世の中の明暗遠近を問わずすべてのものを見る能力。二に天耳通は、一切六道世界の音、声を明瞭に覚知する能力。三に他心通は、心寂静にして他者の思念するところを、姿を見る如くに知る能力。四に宿命通は、自他の百千万回もの再生を繰り返す、それらの生存について知る能力。五に身如意通は、心身自在に、遠近過去未来の欲するところに行く能力。
 以上四向四果を経て、有餘無餘の二涅槃を証することを声聞の極果という。

第二、縁覚果 声聞の果と大同小異であり、縁覚は、必ず宿命明(通)、天眼明(通)、漏尽明(通)の三明を具え、再び三界の煩悩を起こすことなく、勝れてこれらを悟ることを縁覚果とする。

第三、仏果 声聞縁覚にいう有餘無餘の二涅槃を証して寿命きたりて最極究竟とすることは同じではあるけれども、釈迦菩薩は、三祇百劫という果てしない修行を繰り返し、最後の生を得て悉く煩悩を断じ、一切衆生の性根に応じて説法済度し、八相成道したので大覚世尊という。

 第二節 大乗の証果

 第一、二転妙果 菩提の妙果と涅槃の妙果がある。菩提の妙果については既に述べた一切智、道種智、一切種智のことをいう。涅槃の妙果は、四種あり、一に自性清浄涅槃とは、本来具わる仏性のことで、一切の生きとし生けるもの、またこの世に存在するものすべてに有するもので、不増不減なるものなので自性清浄涅槃という。二に有餘依涅槃、三に無餘依涅槃であり、既に述べた。四に無住処涅槃とは、悟りの大いなる智慧あるので世間の煩悩にまみれず、大いなる慈悲の心から涅槃せず、一切衆生を利益救済するために衆生世界に縁に随い応じて現れて未来際を尽くして仏教の妙理を説くことをいう。

 第二、三徳 大いなる涅槃の証果の徳を述べるに三つあり、法身、般若、解脱の三つである。これら三徳をもって、生死に流転する衆生を見て、厭うことなく、同体との大悲心から種々の方便をもって世間に出でて教化救済する。

 第三、三身 涅槃の証果を仏身について言うに、法身仏、報身仏、応身仏の三身如来の妙果とする。我らが目にするのは応身仏の釈迦牟尼仏ではあるが、これら三身はもともと一体のものであり、本来色も像もない無辺無際の法界身であって、無明煩悩に隠されて知ることが出来ないでいる。それを解脱すれば、本来具わっている仏性が厳然と現れて、仏性即法身となり、法身を顕現すれば報身応身の二身が現れ、無碍自在にして一切衆生を救済するに到るとする。

 第四、四徳涅槃 三徳三身の各々に常・楽・我・浄の四徳が具わるとする。常とは、もともと具わる三身は端然常住なるもので三世を経て変わらないものという。楽とは、生死の苦を離れて涅槃寂滅の楽を証することをいう。我とは、仏は無自性の真理に達して応用自在なことを真我の徳という。浄とは、諸々の煩悩穢れを離れて端然清浄なること一辺の塵も無い鏡の如く浄らかなことをいう。

結言

数千巻の経律論に記す膨大なる仏教をここに数章の小冊子にまとめ、その大綱要領を示した。今般行われている諸宗の法門に小異があることと思われるが、本書に述べたことは仏教の大同であり、読者に仏教の大本の教えを知らしめんがためのものである。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約③

2024年06月06日 20時18分09秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約③





第三、正定

一世間禅、世間禅とは、四禅定、四空定などをいう。

十善戒を護り、坐して気息調和し、身心端静にして定に入りても、人の身心の相を見るので欲界定といい、そこからさらに進み、身の感覚を超えて虚空の如く安穏になるのを初禅の未至定という。

そして、欲界など下の境界を厭い、未だ寂静に到らぬので「麁」であり、精妙に苦悩を脱していないので「苦」であり、障礙を出離していないので「障」であると観じて、先に進み、上の境界を得ると、麁動なく寂静にあるので「静」であり、苦縛を脱して静妙なるが故に「妙」であり、迷いの世界に留まろうとする障りを離れ出ているので「離」であると観ずるのを六行観という。

これにより、欲界定から初禅に、さらに二禅、三禅、四禅へと到る。さらに四空定も六行観によって成就する。

二出世間禅、初めに四念処、次に三十七道品とする。出世間禅とは、三法印にある苦不浄、無常、無我の真理を観じて我見我愛などの煩悩を断ずることをいう。そのために四念処観を修す。念とは、観慧であり、処とは観察する所のことをいう。

一、身念処とは、身体について観察することであり、身体は種々の不浄より組成されたるものであり、その不浄を観念して自他の身体が美しく清らかな者であるという顛倒を破すること。

二、受念処とは、我が身が外界との接触により感受するものについて観察することであり、それらは純粋に楽といえるものはなく、一つとして苦でないものはないと観念し、迷いのこの世が楽との顛倒を破すること。

三、心念処とは、心について観察することであり、その働きが常に生滅を繰り返して常住でないことを観念して、同様に常との顛倒を破すること。

四、法念処とは、一切の法について観察することで、それらのものが因縁によって生じ滅するものであり、そこにそのものだけの存在を特定する自性はないと観念して、永遠不滅の我が存在するという顛倒を破すること。

小乗の機根の人は、四念処により四顛倒を観破するはよいとして、その四者に執着し実有との誤った見解をもつ。大乗機根の人は、不浄、苦、無我、無常を観じた上で、この四観に執着して実有なりとする顛倒も破して、八顛倒を破すのである。

三、三十七道品 今述べたる四念処の他に、四精勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科の道品、総じて三十七あり。これらは戒、定、慧のそれぞれに属するものがあるが、みな定心に相応するものなので定聖行に入れ、大略を述べる。

一、四念処、既に述べた。

二、四精勤、一に既になした悪行を断じ、二に既になした善行を増進し、三に未だなしていない悪行をせず、四に未だなしていない善行をなすために、精勤する。

三、四如意足、意の如く目的を成就させる徳のこと。一に欲如意足とは、四念処などの法を修することを欲して善い果を望むこと、二に心如意足とは、修する対象に集中し、一心に正しく行ずること、三に進如意足とは、勤勉に精進修行すること、四に思惟如意足とは、修する対象についてよく思惟して心して試行すること。

四、五根、諸々の道品を行じる際に善根を生じるための力となるもの。一に信根とは、教えを信じ疑わないこと、二に進根とは、励み精進すること、三に念根とは、放逸せず妄想しないこと、四に定根とは、心落ち着き散乱せぬこと、五に慧根とは、観察し明らかに照見すること。

五、五力は五根に同じ。

六、七覚支、一に念、二に擇法、三に精進、四に善(喜の誤りか)、五に軽安、六に定、七に捨とする。修禅の際に精神沈昏するときは、念(心そこに留める)をもって、擇法(法を選択する)と精進(励み精進する)と喜(喜び満足して)の三つの覚支により観起し、心もし浮動するならば、軽安(心身の軽快なるを感じる)と定(心禅定に入り散乱させず)と捨(心かたよらず平静である)の三つの覚支を用いて静定ならしめる。

七、八正道

一に正見とは、苦・空、無常、無我などの十六行(次節に述べる)を修して四諦の真理を認識すること、二に正思惟とは、四諦の真理を観じて煩悩のない心により思考が静まること、
三に正語とは、煩悩のない智慧により邪な言葉を既に離れ、言葉を発することからも離れていること、四に正業とは、煩悩のない智慧により邪な行いを遠ざけ、何かしたいという衝動から離れていること、
五に正命とは、煩悩のない智慧により邪な生活を退けて、清浄なる行を継続すること、
六に正精進とは、煩悩のない智慧により精進して涅槃に向かうこと。
七に正念とは、煩悩のない智慧により如実に現象を観察すること。
八に正定とは、煩悩のない智慧により正しい心の統一を得ること。
  
以上三十七道品は、仏教修行の要道であり、安心立命の地を得んがためにはこれらの道品を修めなければならない。この他出世間禅に属するものとして、他に小乗、大乗、また密教にも種々あり、各自実地に研磨されることを願望する。

 第三節 慧聖行
 煩悩が残る不完全な智慧を有漏の慧といい、煩悩を断じて真実の真理を発見する智慧を無漏の慧という。

第一、有漏智 世間の有漏智に七段階あり、初めの三つは三賢位といい、後の四つを四善根位といい、総じて七賢位という。

初めに、三賢位について述べる。

一に五停心とは、数息、不浄、慈悲、因縁、念仏の五観を修し貪・瞋・痴・我見・散乱心を抑えて相応の慧を発する位をいう。

二に別相念処とは、四念処を修して、身は不浄なり、受は苦なり、心は無常なり、法は無我なりと四境を別々に観じて修得する智慧をいう。

三に総相念処とは、四念処において、身は不浄なりと観じたならば、受と心と法もまた不浄なりと観ずるように、四念処の全体が、ただちに不浄、苦、無常、無我であるとの共相を観ずることによって得られる観達自在の智慧を得たる位をいう。

次に、四善根とは、無漏の智慧が生じて四諦の真理を明瞭に見る段階である見道の直前の位であり、四諦において十六行相を観ずる。

苦諦について観想し、三界の苦は、苦悩なり、空なり、無常なり、無我なりと観念する。
集諦について観想し、苦果を招集する原因は、集なり、因なり、生なり、縁なりと観念する。
滅諦について観想し、滅は真に、寂滅なり、浄なり、妙なり、離なりと観念する。
道諦について観想し、三界出離の道は、真の道なり、如なり、行なり、出なりと観念する。

これを十六行相といい、これに麁細勝劣の差があり、煖位・頂位・忍位・世第一位の四位がある。

第二、無漏智 出世間の無漏の智にも、種々の階級があり、声聞と縁覚とに違いあり、同じ声聞乗の中にも種々の差異がある。我ありとの誤った見解による種々の見惑(無漏智を生じて四諦を明瞭に見ることで滅せられる煩悩のこと)を断じて四諦の真理を悟り、煩悩のない智慧を獲得する声聞の智に十六心の別がある。

四諦を四つそれぞれを観ずる智に忍と智がある。見惑を断じる智を忍、真理を証した智を単に智という。例えば苦諦を観じて楽との顛倒を破するのは苦法智忍といい、苦諦を観じて無漏の真理を証するのを苦法智という。集、滅、道もこれに準じて各々忍と智があり、欲界の四諦を観ずる智に八種あり、また色界無色界の四諦を観ずる智に同様に八種あり、併せて十六心となる。

初めの十五心を初果向(預流向)とし、第十六心を初果(預流果)とし、さらに第二向より第四果に到るまで、三界の微細なる煩悩を断じるために四諦の真理を重々思慮思惟して明瞭な智を得つつ進む。第四果にて三界最頂の煩悩を断じ尽くしたので尽智といい、阿羅漢は再び煩悩を生ずること無いので、その極智を無生智ともいう。

次に縁覚は、飛花落葉を見て悟る者なので、機根勝れその智は鋭利なので、教わることなく十二因縁を悟り、三界の煩悩を断じ尽くす。次章にて述べる聖者の四向四果という段階も分けることなく、一向一果を経て涅槃に到る。

小乗の菩薩は、声聞縁覚同様に三法印によって修行する者ではあるが、利他のために一切衆生を利益して声聞縁覚菩薩の弟子らを教化して悟らしめる化他の智慧広大無辺である。

大乗の菩薩は、四弘誓願を起こし四諦十二因縁の法門を修学し、衆生に結縁するために布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧の六波羅蜜を修して一切衆生を済度するが、その獲得する智慧に一切智、道種智、一切種智の三智がある。

一切智とは、声聞縁覚の二乗が断ずる煩悩を断尽して空諦を証する智慧。
道種智とは、一切衆生の煩悩の心病を知り、それを救う法薬を施し菩提に到らせる仮諦を証する智慧。
一切種智とは、生死と涅槃との二辺に迷う無明の微細な煩悩を断じて、生死即涅槃、煩悩即菩提、生仏不二の中道実相の真理を証する智慧にして、普く十界の一切の凡夫も聖者をも教化する。

定と慧は、もとより相離れざるものであり、慧を得ようとすれば定が必ずあらねばならず、定がなされれば自ずから慧が発せられる。戒定慧の三学は、本来不二にして、一心の三徳なるものである。

仏教の真理に随おうとする者は、必ず三学を修めねばならず、三学を明らかにするものは三蔵であり、経は定に該当し、仏陀が定に入り定の中に現れた法を説くものであり、律は戒に該当し、仏弟子らの非行を戒められ制定されたものであり、論は慧に該当し、仏弟子らが法門の深い教義を論じたるものである。これら戒定慧の三学は相互に関連し離れないものであり、経律論の三蔵も分離すべきものではない。



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明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②

2024年06月02日 20時17分00秒 | 仏教に関する様々なお話
明治の傑僧・釋雲照律師の『佛教大意』 要約②





第三章 修行
発心にとどまって修行することがなければ菩提を得られず、衆生を教化することもできない。我が仏教において、修行とは、戒定慧の三行であり、戒とは身口意の悪行を制止し善行を行ずることであり、定とは内心を寂静にして煩悩を制止することであり、慧とは顚倒せる邪見を捨て正見正智を得ることである。

  第一節 戒聖行 
我が仏教において戒を論ずるに種々の門があるが、それら一切の戒は皆十善をもって根本とする。身業を戒めるものに、不殺生、不偸盗、不邪淫。口業を戒めるものに、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌。意業を戒めるものに、不慳貪、不瞋恚、不邪見がある。されど、これら十業はその源は一心にゆきつくものであり、ただその業の顕れるところについて十善戒の名目が設けられているに過ぎない。一心が真理に順ずるものを善といい、背くことを悪という。また、十善戒に止善と行善とがあり、この二種の戒をまっとうするをもって十善戒を持する者という。

一、慈悲不殺生戒 不殺生とは、一切の生類を殺さないことを言う。殺意を生じて未だ殺生していない者も一分の不殺生戒を犯したことになり、逆に心に殺意無く誤り生類を害したる場合は不殺生戒を犯したことにはならない。が、後に生類を害した過去を顧みて懺悔の心がない場合は幾分かの不殺生戒を犯した者という。不殺生戒における止善は殺生しないことであるが、慈悲の心により生類の危難を救うなど放生を実践することを行善とする。

二、高行不偸盗戒 不偸盗とは、自己が所有するものでない一切の物を取らないことを言う。親子の物でも恣に用いるのは不偸盗戒を犯すことになる。富貴なる者が公益のために金品を施与するなど布施を施すことを行善とする。

三、浄潔不邪淫戒 不邪淫とは、心に邪淫の念をもってなされる一切の道ならぬ淫をいう。夫婦の間とはいえ、非時、非処、非道、非理、非量に淫するは邪淫とされる。邪淫は心を縛り、人を害すること甚だしく、これを恐れて戒めるべきである。夫婦貞潔に時に八斎戒を護り、梵行清潔に随順するなど清浄なる行いに勤めることを行善とする。

四、正直不妄語戒 不妄語とは、見聞覚知したことに違うことを言うことである。また荒唐無稽のことを言うことも含む。行善は誠実な心をもって、正直に真実語を話すことで、これにより他者を教え導き、尊信されることになる。

五、尊尚不綺語戒 綺語とは、軽口、戯言のことで、他の歓笑を取ろうとなされるものではあるが、人の心を迷わす無益無義の言葉である。仏道を修する者は心して悪なることを知り、この戒を護るべきである。言葉厳粛に、喜んで聖者賢人の言葉を談ずることなどが行善となる。

六、柔順不悪口戒 不悪口とは、他を罵倒せず、他者の心を逆なでせず、悪い心を起こさせず、相手に合わせて優しい言葉を用いること。相手の気持ちに添い柔らかい言葉で理に適った真実なる言葉を話すことが行善となる。

七、交友不両舌戒 両舌とは、離間語ともいい、両家両人の親交を破る言葉のことで、悪果をきたすこと疑いなく戒めるべきである。よく他者を和合させるような言葉を話し、両者の親交をはかることが行善となる。

八、知足不慳貪戒 不慳貪とは、少欲知足により贅沢にならず物惜しみもしないこと。貪らず、よく他に施しをして、また他者の施しを見て随喜することなどを行善とする。

九、忍辱不瞋恚戒 不瞋恚とは、怒りの心を起こさず、意に違う場面に遭遇しても自らを損なうものと捉えず、人が自己を誹謗したとしても、それも因縁のなせることと傍観する。もとより自他なきこととわきまえ、冷静であること。瞋恚の心を起こさなければ心常に悦ばしく、慈心あり。慈悲忍辱の行に随い、慈しみの無量なる心に住することを行善とする。

十、正智不邪見戒 不邪見とは、邪見をもたず、因果応報などの正しい道理に随うことをいう。因果応報を信じない者は善悪正邪を顚倒し、無常無我を覚らない者は利己私欲を逞しくする。よって邪見、迷説をもつ人を戒めるのである。因果応報三世十二因縁の道理を信ずるものは、よく諸法の無常無我を覚り、定慧を修して、仏道を成満すべきであり、これを行善とする。

これら十善戒の止善が成就すれば行善自ずから行われ、十悪除けば十善が自ずから行ぜられる。それぞれ十善戒に五思があり、不殺生戒について述べるに、一に離殺思、これは不殺生戒をたもつのに先立ち、殺生から離れることを誓うこと。二に勧導思、自己だけでなく一切衆生を勧導して、殺生から離れさせること。三に讃美思、自他の殺生を離れる善行を讃美すること。四に随喜思、他者の不殺生に随喜すること、五に廻向思、不殺生の功徳により、自他ともに無上の菩提に到らんと廻向すること。

真正の十善戒を持する者とは、必ず止善行善を行い、離殺・勧導・讃美・随喜・廻向の五思を具え、一切諸法無常無我の正しい知見に住し、さらに自他平等の心縁すなわち衆生縁・法縁・無縁の慈悲心をもって社会に利益をもたらし、普く三世に亘り一切衆生を救済する者をいう。

第二節 定聖行
定とは、梵語にて禅那といい、訳して思惟修、静慮という。心を一境に注ぎて、散乱せぬこと。三摩地、三昧ともいう。諸法の真理を発見討究しようとする者は、まず妄想を去り、雑念を止め、喜怒愛憎の情を除き、思念を静かにすることが肝要である。故に禅定が必要となる。

第一、禅定の方法 心と体は密接に関係するものであるので、心を静めるためにまず身体を調える。

一、身を調うる法 平らなところを選び、半跏座ないし結跏趺坐して、手を前に組み、背筋を真っ直ぐにして曲がらず聳えず、頭頸を正しくして伏せず仰がず、口から気を吐き吸い身中快活になれば、口を閉じ舌を上顎に触れさせ、軽く目を閉じ鼻より呼吸し気を和らげ、全身動揺せず静謐せしめる。

二、呼吸を調うる法 呼吸に、風、喘、気、息の四種あり。前の三種は呼吸の不調なるときのもので、呼気吸気出入りに音があるのを風といい、音が無くても出入りに滞りがあるのを喘、音も滞りも無いのに呼吸が細く静かにならないのを気という。呼気吸気が綿々と細く出入りがあるかなきかとなり、心自ずから悦びを感ずるのを息という。心を用いて息を整えようとしても心が定まらない、そういう時にはまず心を静かにし、身体を緩やかにし、全身の毛孔から気が出入りすると観想するとよい。

三、定に入る法 入定に二要あり。まず、坐して頭が垂れ睡魔に襲われ記憶も無い状態にあるときは、少し目を開き、鼻端を見て心集中し出入りの呼吸を一つ二つと数える、吸気がどこに入りどこに留まりどこに去るのかを観察する。出る呼気に分散なく、入る吸気に滞りなく心澄みゆけば心眼開かれ昏沈が去る。また、身心安穏ならず、妄想しきりに往来する時は、心を静め臍の起伏に意識を集中して、外に心が向かない様にして心の乱れを制する。念を強く用い過ぎて錯乱し胸に痛みを感じる様なときは想念をとく。心散漫となり、身体くつろぎ涎がよく出る様なときは、身体に意識を向けてその感覚に心を集中するとよい。心の浮き沈み、緩急に気をつけて適した法により、心安静となり散逸せず、凝り固まらず定に入る。

四、定に住する法 身は背筋真っ直ぐにして安静にし、息は綿々と細くして、息あるが如くなきが如くになし、心は浮き沈みなく適度に意識をたもつならば、この三者適度に調い、平正を得ること度々となる。これを定に住するという。

五、定を出るの法 まず心の念を解き、口を開いて気を放ち、少し肩肘手頭頸を動かし、両足を下ろして、手で身体をさすり両手を擦り、両眼をおおい、それから目を開けて、起立歩行すべし。

第二、助観 身・息・心を調えて定に入るのは方便であり、目的ではない。これから述べる助観、並びに正定があり、助観はまた正定の方便となる。助観とは、五停心のことであり、一に数息観、二に不浄観、三に慈悲観、四に因縁観、五に念仏観である。

一、数息観 心散乱するとき、心を統一せしめるために数息観を修すべし。出息時、または入息時の数を取ってもよいし、出入りの中でもよく、数えやすい所で数を取り、一つ二つ三つと十まで数え、また一つに還り、繰り返す。

二、不浄観 淫欲の心が起こることあれば、不浄観を修すべし。貪欲に大別して、外貪欲、内外貪欲、偏一切処貪欲の三つあり。他の男女の容貌を想像して貪欲止むことがない状態を外貪欲といい、その場合には、人体の不浄を観想するとよい。死後身体が膨張し、膿血流出し、筋肉は腐乱変色し、蛆虫が発生、鳥獣争い肉を食らい、形骸分離して白骨のみとなり、また火に遭い灰になると観想する。また、他の男女もしくは自己の容貌を想像し種々の煩悩を起こすのを内外貪欲といい、この場合は自己の身体の不浄を観想する。自他の容貌に愛著してさらに衣食、家財などにも貪欲を起こすのを偏一切処貪欲といい、この場合には、飲食に屎尿の想をなし、貨財に毒蛇の想をなすなどして世間の物みな不浄にして、貪心を生ずべきものではないと念ずる。

三、慈悲観 瞋恚の念起こるときは、慈悲観を修すべし。瞋恚に、非理の瞋、順理の瞋、諍論の瞋の三種あり。非理の瞋とは、憤る理由なくして怒ることで、これを治すには、衆生縁の慈悲を修すとよく、人と人との繋がり、世間の相助け相頼む関係を思い、愛念を生じて瞋恚を断つ。順理の瞋とは、人の苦悩する境遇に憤り、他の非道なるを見て怒るなど憤怒する理由ある瞋恚のことで、これを治すには、法縁の慈悲を修して、みな一体一味との観をもって衆生個々の姿を見ないことによって瞋恚を断つ。諍論の瞋とは、自己の考えを正しいと思い、相手の考えを間違いだと決めつけて、他者の考えの違いに憤怒することをいうが、これを治すには、無縁の慈悲を修して、自他平等にして差別無しとの観念により、諍いもとよりなしと達観すべし。

四、因縁観 愚痴蒙昧に陥るときは因縁観を修すべし。愚痴に、計断常の愚痴、計有無の愚痴、計世性の愚痴の三種あり。計断常の痴とは、この世と自我は不滅であるとか(常見)、死後断滅するなどの誤った見解(断見)を持つことで、この場合には三世の十二因縁を観念し、因果は相続して不断であり、自性は空であるので不変ではないと観じてこの邪見を断つ。計有無の痴とは、すべての存在が有るとか無いとかと頻繁に思い錯綜することであり、この場合は一期の十二因縁を観念して、有無の誤った見解を離れる。計世性の痴とは、微塵は存在するので実体があるとして四大、衆生世界も実性ありとする誤った見解を持つことで、この時には一念にある十二因縁を観念して、微塵なるものにも因縁による生滅ありと悟りこの邪見を破すべし。

五、念仏観 坐禅するとき種々の障害が起こるときには、念仏観を修するべし。障害に、沈昏暗蔽障、悪念思惟障、境界逼迫障の三種あり。沈昏暗蔽障とは、精神沈昏して判別できない状態をいい、これを治すには、仏の三十二相中、白毫相など一相を取り、深く観ずべし。悪念思惟障とは、十悪や五逆(父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏身を害して出血させる、教団の和合を破壊する)の悪念を起こして禅定を妨げることをいい、これを治すのに、仏の一切種智などの功徳を念ずるとよい。境界逼迫障とは、定を修するとき、苦悩逼迫して身体に苦痛を感じ奇怪なる相を見るなどをいう、この場合には、法身仏を観想することで、不生不滅、非有非空の法身なれば、境界なく、逼迫する者もなくなり、この障害が除かれる。

以上、助観にて心の散乱を防ぎ、淫欲を制し、瞋恚を伏し、愚痴を排し、種々の障害が除かれたので、これらに妨げられることなく、真理を観察考究することができよう。助観が修し終えたら、次に正定を修し禅定を完成させるべきである。



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