恐怖と陶酔の時間を終えて、デザントがフィリアの耳元で囁いた。
「第一夫人も第二夫人も、嫁いで三年経っている。準備を急ぐ」
フィリアの全身が一瞬で冷えた。
翌朝まだ暗いうちに、フィリアは王宮を出た。
峠を越える街道を、南へ急ぐ。
知り合いの一人もいない。
別荘も、親類の家も、婚約者の領地も無い方角を選んだだけだ。
重い荷物は、山道から少し逸れた藪の中に捨てた。
水と干菓子、僅かなお金と貴金属だけを皮袋に詰め、斜めに下げている。
蹄の音に怯えて、一度山に入ったが、後はひたすらに、道を歩き続けた。
二日後の夜遅く、フィリアはジャナの港に着いた。
目についた居酒屋に入ると、髪を高く結い上げた女が、注文を取りに来た。
「おすすめの夕食を一人分お願いします。それと、近くの宿を、教えて頂けますか?」
「もう、ほとんど閉まっているよ」
皮袋一つを持ち、疲れきった様子のフィリアを見て、女が言った
「うちに泊まったら?」
「えっ?」
フィリアが驚いて聞き返した。
「野宿になったら物騒じゃないか。狭くて汚いけど我慢してよ。あたしはサミ。あんたは?」
る フィリアが戸惑う。
本名はまずいだろう。
でも考えていなかった。
「じゃあ、アミでどう?あたしのひいばあちゃんの名前だよ。あんたみたいに美人で、おまけに長生きしたんだよ」
サミはそう言ってフィリアの背を叩き、「気楽にいこうよ」と、笑った。
次の朝、フィリアはサミと一緒に魚のパン粥を食べていた。
焼き魚もパンも、店の残り物だったが、久々に睡眠が足りた若い身体に、穏やかに、かつ力強く、染み渡っていった。
その様子を嬉しそうに見ている、サミも食欲が旺盛だ。
大人びた身なりはしているが、二十歳そこそこなのだ。
「ところでさ、アミ。これからどうするの?」
「一人で生きていきます」
フィリアは言い切った。山道を歩きながら決めた、硬い決意だった。
「ああ」
サミは何か言いたげに、フィリアを見た。
けれどすぐに、笑顔に戻る。
「じゃあ働かなきゃね。あてはあるの?」
「いえ、全く」
「こんなに美人なんだから、看板娘に引っ張りだこだとは思うけど」「あまり人目に触れたくないんです」
「う~ん・・・そうだ!。知り合いの乾物屋で人手が足りないって。どう?話を聞きに行かない?」
「えっ?本当ですか?有難うございます。あ、ですが、そんな、何から何まで」
嬉しいやら恐縮するやらで戸惑うフィリアに、サミが笑いかけた。
「訳ありは港じゃよくあることさ。女同士、助け合わなきゃね」
「これは確かに『ナイフは持ったことがある』だねぇ」
丸顔の女主人が、太い腕を組み、フィリアの手元を覗き込んだ。
「でも大丈夫!うちは惣菜も作ってるからね。なあに、魚の匂いが染み付く頃には、嫌でも一人前になるから、安心おし!」
女主人はからからと笑い、フィリアの背中を叩いた。
フィリアはその突き抜けた明るさに圧倒されて、見上げていた。
三日後、男爵家は大騒ぎだった。
期日を過ぎても戻らないフィリアを心配して、出した使いが戻ったのだ。
門番は予定していた日の未明に出たという。
自ら姿を消したのだろうか。
けれど何故?。
その時、玄関の方から、荒々しい足音が聞こえてきた。
執事の制止する声とともに、近付いて来る。
「男爵!」
デザントだった。
「フィリアが帰ってないとは誠か?」
「王太子様!」
男爵夫人は、両手で口を覆った。
男爵も驚きを隠せない。
「私どもは、宮殿にいるものだとばかり」
「行き先に心当たりはないのか?」
「ございません」
「無いはずはなかろう。親ではないか!」
「そう、おっしゃられましても」
男爵には違和感があった。
王太子が熱心過ぎるのだ。
自ら馬で駆け付けた上、この取り乱しようは。
男爵の視線に気付き、デザントは後ろを向いた。
「そうか。ではこちらはこちらで捜す。何か思い出したら知らせよ。もし見つかれば、直ぐ宮殿に戻らせるように」
「宮殿で何があったのですか?」
「何が?」
デザントが振り向いて、ギョロりと男爵を見る。
その目で男爵は確信した。
「最初から一年のお約束でした。『戻らせる』とは、どういったことでしょう」
デザントが一瞬怯んだ。
けれどすぐ、噛みつくように言い返す。
「また居なくなると困るからだ。手続きが済み次第、フィリアを娶る」
男爵は合点が言った。
同時に腹が熱くなる。
自分への怒りなのか、デザントへの怒りなのか、自分でも分からなかった。
けれどその怒りが、身分を忘れさせた。
「では、それが理由なのでしょう」
男爵は大きく息を吸った。
「あの娘は、フィリアは従順な娘です。私達に背くどころか、困らせることすら一度もございませんでした。それがこの事態を、招いたのです。そしてそのフィリアが、初めて自分の意思を通そうとしている。私はせめて、その気持ちだけでも守ってやりたい。もしも殿下がお心を変えて下さらなければ」
男爵は胸を張り、デザントを見上げた。
「正式な使者が来る前に、私は爵位を返上致します。お気に召さなければ、投獄でも何でもなされば良い。それが、私の覚悟です」
見上げた目に熱がこもる。
「あえて姉妹でとおっしゃる程に、フィリアをお気に召されたのであれば、あの娘の覚悟を踏みにじらないで頂きたい」
「違うのだ」
デザントが首を振る。
「フィリアも私に惹かれているのだ。私達は、惹かれ合っていたのだ」
そう、あの日から。
デザントは確信していた。
勘違いでは決してない。
「なのに何故なのだ。私にはさっぱり分からない」
「仮に惹かれていたとしても、未明に姿をくらましたのは、追っ手を恐れてのことでしょう。それがフィリアの決意です。フィリアはもう、殿下への答えを出したのです」
「答えの理由を訊くことさえ、許されないと?」
「フィリアが拒んでおりますゆえ。身分で心まで十分になされると?」
男爵は、あえて疑問を疑問で返した。
まだ幼かったダリアの次にはフィリアを。
男爵は歯軋りをした。
この男は私達を愚弄している。
身分に任せて。
今度こそ、自分は守らなければならない。
いつも家族のことを思ってくれていたフィリアを。
その目の熱が、更に上がる。
睨み合いは、父の思いが制した。
男爵は次の日、甥との養子縁組を、白紙に戻した。
男爵夫妻は、フィリアは南に向かったものと推測した。
船に乗る路銀もないはずなので、きっと港にいるだろうことも。
男爵は友人の腹心に、ジャナ出身の男がいることを思い出した。
二人は快く承諾し、数週間後、男爵夫妻はフィリアからの手紙を手にした。
フィリアは戻るようにとの勧めにも、せめて援助をとの懇願にも、頑として応じなかった。
翌年、フィリアは女の子を産んだ。
男爵夫妻は港まで、密かに二人に会いに行った。
フィリアの荒れた手に、夫人は涙した。
フィリアはその手で我が子を抱き、ストールで包むとよく眠ってくれるのと、幸せそうに微笑んだ。
真っ赤な巻き毛のその赤ん坊は、フレイアと名付けられた。
その後男爵は、より慎重に連絡をとるようになった。
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