今日で3月が終わり、明日から4月
この3月は生涯忘れることがないだろう。
3月、スポッと抜け落ちたような、辛い月となった。
カレンダーを見ながら 3月って何があったんだろう?と思い起こすと
1日に高校の卒業式があったっけ・・・
そして運転免許取りたての娘と、毎日練習に付き添っていたなぁ・・・・
3月11日
大地震、津波・・・・
あの恐ろしさ、心細さ・・・
続いてやってきた停電、断水、ガス停止
「荒浜に200~300体の遺体浮いている」とラジオから流れたとき、ただならぬ事態だと悟った。
何もかもが経験したことがない時間の中にいた・・・・
ただ毎日ラジオに耳を傾け、窓から街の様子を眺めるだけで
日が暮れるとロウソクに火をともし、2晩は湯たんぽ3個を入れたコタツに、洋服のまま寝た。
携帯も電話も通じない世界
地震の翌日からは生活用品を求める人の長い行列、ガソリンスタンドに並ぶ長蛇の車と
ジッと並んで待つことが、日課となった。
あの時ガソリンを満タンにしていたら・・・・もっと犬のエサを買っておけばよかった・・・
トイレの便座カバーを捨てないでおけばよかった・・・・・
電池の買い置きしておけば・・・・反射式ストーブを捨てずにおけばよかった・・・
エコキュートに変えていればよかった・・・などと
何度も後悔することが起きた。
先の見えない生活が不安で仕方なかった。
わずかの食べ物を手に入れるのにも、数時間、寒さをこらえながら並びもした。
クレジットカードが使えず、すべて現金だったり・・・
3時間半並んでわずか2000円分しか給油してもらえなかったり・・・・
被害状況がわかるにつれ、亡くなった多くのかたや、家が流され避難所にいる人達からしたら、
そんな不安な生活も、家が無事でこうして生きているだけで有難いことなのだと思うようになった。
すれ違う多くの支援車両を見るたび、ほんとうにありがたかった。
次々にライフラインが回復し、その速さには驚くものがあった。
ご近所さんとも声を掛け合い、お互いこのぐらいの不自由なんてなんともない、と励ましあいながら
毎日を過ごした。
いろんな方が夫の実家のことを心配してくれた。
実家の母はデイサービスに通っていたので、施設の方が集団避難させてくれていて無事だったということ、
妹は車で避難中に渋滞で車が動かず、車を捨てて気仙沼中央公民館に避難。
津波から逃れたものの、一帯でおこった火事が迫ってきてもう駄目かと思ったそうです。
煙を吸わないよう体を低くして、恐ろしさの中で二晩過ごし、その後ヘリで救助され自宅に戻ったと
4日目に連絡が来て、あの時は泣きながら無事を喜び合いました。
救出されてから、喉がカラカラで、泥の中から高校生が缶コーヒーや栄養ドリンクを拾い集めて
いたところに出会わせ、差し出してもらった缶コーヒーが命の水だったと話してくれました。
親戚縁者 みんなが無事だったことに感謝し、何かしなくては、何ができるのだろうかと考えているところです。
今は、学校や知人などの呼びかけで、ランドセルの提供とか、通学バック、制服ブラウス、靴や洋服を
その都度段ボールに詰めて届けてもらっています。
こういった何が必要かがわかると、力になりやすいので、そういう情報がメールを通じて友人の輪で広がるといいですね。
明日から4月、日が経つにつれ支援の内容も変化してくるでしょう。
自分にできることに出会ったら力になれるよう、心も体も健康でいようと思っています。
この3月は生涯忘れることがないだろう。
3月、スポッと抜け落ちたような、辛い月となった。
カレンダーを見ながら 3月って何があったんだろう?と思い起こすと
1日に高校の卒業式があったっけ・・・
そして運転免許取りたての娘と、毎日練習に付き添っていたなぁ・・・・
3月11日
大地震、津波・・・・
あの恐ろしさ、心細さ・・・
続いてやってきた停電、断水、ガス停止
「荒浜に200~300体の遺体浮いている」とラジオから流れたとき、ただならぬ事態だと悟った。
何もかもが経験したことがない時間の中にいた・・・・
ただ毎日ラジオに耳を傾け、窓から街の様子を眺めるだけで
日が暮れるとロウソクに火をともし、2晩は湯たんぽ3個を入れたコタツに、洋服のまま寝た。
携帯も電話も通じない世界
地震の翌日からは生活用品を求める人の長い行列、ガソリンスタンドに並ぶ長蛇の車と
ジッと並んで待つことが、日課となった。
あの時ガソリンを満タンにしていたら・・・・もっと犬のエサを買っておけばよかった・・・
トイレの便座カバーを捨てないでおけばよかった・・・・・
電池の買い置きしておけば・・・・反射式ストーブを捨てずにおけばよかった・・・
エコキュートに変えていればよかった・・・などと
何度も後悔することが起きた。
先の見えない生活が不安で仕方なかった。
わずかの食べ物を手に入れるのにも、数時間、寒さをこらえながら並びもした。
クレジットカードが使えず、すべて現金だったり・・・
3時間半並んでわずか2000円分しか給油してもらえなかったり・・・・
被害状況がわかるにつれ、亡くなった多くのかたや、家が流され避難所にいる人達からしたら、
そんな不安な生活も、家が無事でこうして生きているだけで有難いことなのだと思うようになった。
すれ違う多くの支援車両を見るたび、ほんとうにありがたかった。
次々にライフラインが回復し、その速さには驚くものがあった。
ご近所さんとも声を掛け合い、お互いこのぐらいの不自由なんてなんともない、と励ましあいながら
毎日を過ごした。
いろんな方が夫の実家のことを心配してくれた。
実家の母はデイサービスに通っていたので、施設の方が集団避難させてくれていて無事だったということ、
妹は車で避難中に渋滞で車が動かず、車を捨てて気仙沼中央公民館に避難。
津波から逃れたものの、一帯でおこった火事が迫ってきてもう駄目かと思ったそうです。
煙を吸わないよう体を低くして、恐ろしさの中で二晩過ごし、その後ヘリで救助され自宅に戻ったと
4日目に連絡が来て、あの時は泣きながら無事を喜び合いました。
救出されてから、喉がカラカラで、泥の中から高校生が缶コーヒーや栄養ドリンクを拾い集めて
いたところに出会わせ、差し出してもらった缶コーヒーが命の水だったと話してくれました。
親戚縁者 みんなが無事だったことに感謝し、何かしなくては、何ができるのだろうかと考えているところです。
今は、学校や知人などの呼びかけで、ランドセルの提供とか、通学バック、制服ブラウス、靴や洋服を
その都度段ボールに詰めて届けてもらっています。
こういった何が必要かがわかると、力になりやすいので、そういう情報がメールを通じて友人の輪で広がるといいですね。
明日から4月、日が経つにつれ支援の内容も変化してくるでしょう。
自分にできることに出会ったら力になれるよう、心も体も健康でいようと思っています。