狐の日記帳

倉敷美観地区内の陶芸店の店員が店内の生け花の写真をUpしたりしなかったりするブログ

目を閉じて触れてみる。この手、この腕、これが僕だ。見ようとしなければ、僕は本物の僕自身に触れることが出来るだろう。そしてその手応えが、何よりも生きてるってことの証になってくれるのさ。

2020年07月16日 13時15分06秒 | その他の日記
 状況が変わり前提が一変しているにもかかわらず、同じプログラムを走らせようとするのならば、結果を見るしかないですね。
 同じプログラムを走らせろと主張する人達は、同じプログラムを走らせたなら大ダメージを受ける人が無数に出てくる可能性を全く理解しようとしないし大ダメージを受けるであろう人達を見ようとしていない。
 見捨てられる人が大勢出てくる。
 でも、仕方ないじゃん。
 怖い怖いと煽っている人があまりにも多くて怖い怖いと怯えている人があまりにも多いもの。
 この流れを押しとどめることは出来ない。

 みんなで貧乏になりましょう。ということですよ。
 みんなで極貧になりましょう。ということです。
 極一部の人が望んでいた世界に突入しましょう。ということです。
 そして人は動物の部分を捨て去りましょう。ということです。
 欲しいものが手に入らなくなったとしてもそれは仕方のないことです。
 したいことが出来なくなったとしてもそれは仕方のないことです。
 大勢の人が怖がっているのだから仕方がない。
 全ての欲望を捨て去りましょう。
 みんなで閉じ籠りましょう。
 閉じ籠って動物の部分を捨て去りましょう。
 バーチャルな世界で生きましょう。

 でも、その先を考えていた方がよいですよ。
 新しい生活様式のその先に何が存在するのか? そのことはきちんと考えていた方がよいですよ。
 人が動物の部分を極限まで捨て去った世界とはどのような世界なのか? その事は考えていた方がよいですよ。
 
 生き残りを賭けた判断というのならば、判断のその先にある危険も考慮すべきです。



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