共産主義は、社会を構成する人達が生産した富を社会で構成する人達全員で平等に分配することで平等な社会を作ろうとします。
しかし、生産された冨の内で数値化できないものや数値化することが難しいものには対応することが出来ないので平等に分配することは不可能となります。
長い間に多くの人の目に晒されて評価されて評価が決まっていくもの。
研鑽の末に可能となる技術を使って作られたもの。
芸術やサービス業や音楽や思想や宗教や文化に関わること。
それらの数値化することが難しい富に対しては共産主義では平等に分配することは不可能となります。
しかし、共産主義体制では数値化することが難しい富も平等に分配せねばなりません。
なので、数値化することが難しい富は共産党が勝手に評価して分配していきます。
そうなれば、当然、人々の間で不満が出てきます。
数値化されにくい冨は各々の人が評価するしかなく、その評価は多くの人の評価が集積したもので決定するしかないからです。勝手に共産党が評価を下したならば多くの人に不満が生じます。
不満が出るのであれば、公平に平等に分配したことにはなりません。
それでは共産主義に反することとなってしまいます。
共産党が共産主義に反することをしてしまう。ということになります。
この命題に共産主義の人達は今のところ何も回答を出せていません。
共産主義は多くの矛盾を抱えた主義で、上に上げた例は一例に過ぎません。
理論的に無理が生じる考え方で、矛盾を解消する為の理論の再構築はいまだ成されていません。
宗教の一つと考えるならば成立しますが、経済理論や社会体制の理論として考えるならば無理があります。
人が生み出す富には数値化できないものや数値化しにくいものがあります。
それらが数多く豊かに存在している社会こそ豊かな社会です。
ある人にとっては全く役に立たないものが数多く存在することが出来る。多くの選択が可能な社会。そのような社会こそが豊かな社会だと私は思うのです。
ある集団が決めた価値観しか存在することが出来ない共産主義国家のような社会はまっぴらごめんだし、そのような社会では私のような人間は生きていけないだろうな、と思うのであります。
カール・マルクスが『資本家は労働者の富を搾取している』と主張して『資本主義が高度に進化すると社会主義を経て共産主義に移行する』と予言したのだが、実際に共産主義に移行したのは『資本主義以前の遅れた国々』だったのが、そもそもの誤りであった。
カール・マルクスの誤りは、ヒトを『経済人』としてしか見ず『人間の欲望に多様性がある』ことを無視したためだ、と思われます。
それが『文明的に遅れた国家』において実現したところに悲劇の根があるのです。
カール・マルクスの理想を最も実現したのは70年代や80年代の日本である。と言われることもありますね。
共産主義革命を経て無理矢理共産主義体制を作るのではなく、自由主義経済を発展させて結果として共産主義の理想を実現させる。という方法論もあるのですが、何故か共産主義の人達は過去の共産主義体制のやり方を踏襲し他のやり方を模索するという行為を放棄しているように思えます。
無理矢理、共産主義を導入することになれば、無理が生じます。
私のような人間は、その無理の中で潰されて生きていけないでしょう。
ある集団が決めた価値観しか存在することが出来ない社会では、それがどのような価値観であっても素晴らしい価値観であったとしても、断固否定すべきだと私は思っているのです。
それでは貧しい社会となってしまいます。
そして、少なくとも私のような人間はそのような社会では生きていけないでしょうから。
共産主義の社会は、「価値観は人それぞれで違う」ということを否定しなければ成立することが出来ません。
それ故に、価値観を統一させようとします。
しかし、その価値観の統一は共産党の首脳の価値観で統一させることになってしまうのです。
私のような人間は、人の価値観が統一されたならば、生きていけないでしょう。
私の今の職も、人の価値観が全く違うからこそ、面白いのであります。
共産主義に問題があるか否かではありません。
世の中には「人を支配したい」と考えている連中がいます。彼らは、理論を用いて人民を騙して支配します。例えば、
「神は偉大なり。我はその代弁者なり」
「共産主義は人民の味方であり、我々は西側諸国の害毒から国を守らねばならない。だから党の指導に従え」
「私はこの国を偉大にする。だから私に投票しろ。私に特権があるのは当然だ」
みんな理論で人々をだまして、人民を支配してるだけです。
失礼ながら読解力が不足しているように見受けられます。