(ロシアの漆塗り小箱)
鼻ひげ女人のリードで、ご主人様は見よう見まねでフラフラと懸命に踊ったが、嬉しくも楽しくもない。
これが女人との人生初めてのダンスかと思うと誠に情けなくなってくるのだが、上司がチラチラとこっちを見ているのでイヤな顔もできず、とりあえず笑顔で踊り続けた。
その女人とは出来るだけ離れるスタンスで踊ろうとしたが無理である。狭いダンスフロアーは酒飲みの陽気なロシア人達であふれて大混雑になってきたのだ。
それでも一曲目をなんとか踊り終えたご主人様がテーブルへ戻ろうとすると、鼻ひげ女人が彼の手をつかんで離さない。ご主人様はもはや身も心も限界である。
ご主人様はすがる思いで上司を探したがテーブルに彼の姿がない。
「はて、どこへ消えたか?」
と目を泳がると、向こうの方で飛び切りの美女と楽しそうにダンスをしているではないか!
その瞬間、ご主人様の意識が切れた。
遠のく意識の中で、スローなテンポの曲が聞こえた。そしてなにやら柔らかく温かなものにすっぽりと包み込まれたような気がした。ローズの香りもしたような気がする。それはとてもとても気持ちの良い感覚であった。今まで感じたことの無い・・・・・・・。
その後のことは覚えていない。
気がついた時は、宿舎に帰る車の中であった。
走る車窓の外を見ると、街灯の淡い光の中で、白い粉雪がモスクワの街を舞っていた。