クロの里山生活

愛犬クロの目を通して描く千葉の里山暮らしの日々

植芝盛平との出会い

2014-07-27 22:06:30 | 日記

里山の田んぼにも稲穂が出てき始めました。

この暑さは稲の生育には良いようですね。

 

(本文)

学が合気苑の門をくぐり、玄関口に向かって歩いて行くと、野良着姿の老人が庭にしゃがみこんで草むしりをしていた。

その姿は合気苑の小間使のように見えた。

「すみません。植芝先生はご在宅でしょうか?」

「・・・・・・・君は誰かね?」

「本間学といいます。秋田から出てきました」

「おー、君か。わしが植芝じゃ。君のことはお父さんから聞いておる」

「た、たいへん失礼しました。ど、どうか宜しくお願い致します!」

 開祖がそのような姿で草むしりをしているなどとは、学は思ってもみなかった。

合気道関係者の間では、植芝開祖は神様のような存在であったのだ。

 

開祖植芝盛平氏の合気道家としての活躍、なかんずくその神秘的な技の数々は、伝説となって語り継がれている。

そしてその存在は、今でも巨星の如く輝いている。

 

開祖の主な経歴を振り返ってみたい。

 1930年(昭和5年)開祖47歳の時に、講道館柔道創始者・加納治五郎が盛平の演武を見て「これこそ真の柔道だ」と賞賛し、嘉納は講道館から高弟(望月稔)を盛平に弟子入りさせた。

翌年、新宿区若松町に道場「皇武館」を設立、激しい稽古振りからそこは「地獄道場」と呼ばれる。

1933年(昭和8年)、兵庫県竹田町に「武農一如」方式の「大日本武道宣揚会竹田道場」を開設、東京の皇武館と並ぶ西日本の拠点となり、「西の地獄道場」と呼ばれる。

1937年(昭和12年)満州国武道顧問・建国大学武道顧問等に就任。合気武道が建国大学の正課に採用される。

1939年(昭和14年)。満州国武道会常務理事・天竜三郎の招きで公開演武会に出場、腕試しで天竜を投げる。

1940年(昭和15年)57歳。この頃から茨城県岩間町において合気神社の建設に着手する。昭和10年頃から同地に土地を少しずつ買い足しており、引退後の住処にする計画であった。

1941年(昭和16年)。日米開戦。この前後に近衛文麿の依頼を受けて中国大陸に渡り、蒋介石との和平交渉工作を試みるが不首尾に終わる。

1942年(昭和17年)59歳。一切の公職を辞し、皇武館道場長を息子吉祥丸に譲り、妻はつと共に岩間に移住、合気神社および住居周辺を開墾し道場の建設に着手。同地を「合気苑」と名付けかねてより念願であった「武農一如」の生活に入る。

1948年(昭和23年)65歳。「皇武会」を「合気会」と改称、岩間の合気苑を本部とする。この時はじめて正式に「合気道」を名乗る。

1960年(昭和35年)77歳。盛平のドキュメンタリー映画『合気道の王座』がNTV(後の日本テレビ)により製作される。

1961年(昭和36年)78歳。ハワイ合気会の招きにより渡米、ハワイ各地で演武指導を行う。ドキュメンタリー映画『合気道』が製作される。

1964年(昭和39年)81歳。「合気道創始の功績」により勲四等旭日小綬章に叙せられる。

 

本間学が合気苑の門を叩いた時は、開祖は83歳であった。

 

コメント (2)
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