※鵠沼の今昔。今は住宅地が広がっていますが、かつては、
1880年代のようす。荒涼たる砂浜が広がっている。
現在は、
住宅がびっしりと。2010年代のようす。
戦前から鵠沼海岸として開発・整備され、住宅が増えてきています。
神奈川県による湘南海岸開発
1923年(大正12年)の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から高級住宅地へと変貌することになる。
震災からの復興は急ピッチで進められた。・・・
1929年(昭和4年)の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。
1930年代は神奈川県の手で湘南海岸の国際観光地化が図られた。折しも世界恐慌の時代と重なるが、失業対策事業という名目も加わってインフラストラクチャー整備が進められた。
主な事業としては、県営湘南水道、湘南遊歩道(鎌倉郡片瀬町-中郡大磯町 現国道134号)敷設、さらに引地川の河川改修と鵠沼堰の建設などである。鉄道省海の家開設、幻の東京オリンピックを見越した県営鵠沼プール(後に藤沢町に移管)の建設が加わった。
日中戦争が泥沼化し、日本が国際社会から孤立化すると、「国際観光地」としてのもくろみは画餅に帰したが、国内有数の海水浴場として、つかの間の賑わいを見せるようになった。しかし、東屋が廃業した1939年(昭和14年)ころから、次第に軍国主義の陰が覆うようになってくる。
皇紀2600年を国を挙げて祝った1940年(昭和15年)10月1日、藤沢町は市制を敷き、藤沢市となる。それから1年余、太平洋戦争に突入する。戦争が激化すると、疎開先に選ばれた鵠沼の人口は激増した。重爆撃機による空襲はほとんどなかったが、艦載機による機銃掃射は日常的になった。
戦後もしばらくは南東部の旧別荘地には松の翠が色濃く残り、北西部の農村地帯は村落共同体としての伝統が脈々と受け継がれていた。
(この項、「Wikipedia」参照)
「海から2.0㎞ 標高5.1m」。
下藤が谷公園。
小池に水中に潜るカルガモ。
「江の島シーキャンドル」が見えてきました。
久々に「飛び出し坊や」。
「海から1.5㎞ 標高3.5m」。
振り返る。
クロマツ。海岸らしい雰囲気。
釣り船が係留されています。
「海から1.0㎞ 標高3.0m」。あと15分足らずで河口に到着予定。