おやじのつぶやき2

「おやじのつぶやき」続編。街道歩きや川歩き、散歩がてらの写真付きでお届けします。

小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その2。

2023-06-22 18:18:56 | 境川

鎌倉、三浦半島方向。

江ノ島弁天橋。外国人もたくさん来ています。

振り返ると、怪しげな雲行き。

こちらは青空が広がる。

「弁天橋沿革」解説板。

この橋は、明治24年(1891年)満潮時砂浜であるところと島とを結んだ橋として作られ、江の島桟橋と呼ばれていました。明治30年に至って橋を片瀬州鼻まで延ばし、大正11年に県営となるに及んで渡橋料金2銭也がとられました。しかし橋が長いので一度暴風に遭えば流失するような状態で、昭和24年には更に橋脚と鉄筋コンクリートパイル上部は木橋として作り直され、その後江之島弁天橋として親しまれてきました。昭和32年に至って湘南海岸公園施設の一翼を担い、この近代的な橋梁に生まれ変わったものであります。

さて、定番の参道を歩くことに。平日ですが(6・16)、たくさんの人が上がったり、下ったり。

売店、お土産店の前では並んでいます。歩きながら大きなtakosennbeを食べている人、・・・。

青銅の鳥居。

江之島弁財天参拝の玄関口となる鳥居です。古くは木製の鳥居でしたが、1821年(文政4年)に青銅製で再建されました。鳥居の柱には再建に尽力した大勢の人々の名前が刻まれており、信仰の厚さを物語っています。正面の額には「江島大明神」と書かれていますが、特徴的な筆跡は弁財天のお使いである蛇をかたどっています。・・・

左手に古めかしい郵便ポスト。

 「明治時代の郵便差出箱」。

「岩本楼」。

 <img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/26/6d/58406e94e85ecdcfa102ac251785a0cf.jpg">

前身は金亀山与願寺(現:江島神社)の別当職を務めた岩本院で、鎌倉時代以来の歴史を持つ。

古くは中の坊と称していたが、その後岩本坊・岩本院と改名した。上の坊・下の坊と共に与願寺の別当を務めていたが、後に上の坊・下の坊を支配下に置き、総別当となる。

江戸時代中期以降、江の島は江戸から手軽に行ける観光地として栄え、岩本院も宿坊として栄えた。文久2年(1862年)初演の歌舞伎、青砥稿花紅彩画(白浪五人男)に登場する弁天小僧は岩本院の稚児をモデルにしたと言われている

1873年明治6年)、神仏分離令により与願寺は廃され江島神社となり、岩本院も翌1874年に岩本楼と改名し旅館となった

(この項、「Wikipedia」より)

当館は鎌倉時代より850年、湘南・江の島「弁財天仲見世通り」に佇む老舗旅館です。当館は鎌倉時代の宿坊に由緒を持ち、江の島を代表する宿として親しまれてまいりました。江の島の歴史とともに歩んできた岩本楼の歴史を紹介いたします。

岩本院文書(藤沢市文書館寄託)

江の島弁財天詣での浮世絵を表紙にした岩本楼初期のパンフレットです。

竣工当時の江の島弁天橋
 
大正時代の海水浴の様子
 
「岩本坊」から「岩本院」へ

旅館・岩本楼本館の由緒は、はるか鎌倉時代のお寺「岩本坊」に遡ります。時は源頼朝の時代、「岩本坊」は、江の島岩屋および、江島神社中之坊(現在の奥津宮)の管理を担う別当寺でした。後に、「岩本坊」は「院」号を与えられ、宗教権、支配権、経済権を掌握する江の島一山の総別当となります。

当時は源頼朝を起源とする「江の島弁財天信仰」の高まりにより、将軍や諸国大名などが江島神社を参詣し、「武運長久の神」として弁財天を崇めていました。その参詣の折、休憩所や宿泊所の役割を果たしていたのが「岩本院」です。

その後、天下泰平の江戸時代に入ってからも、歴代の将軍が頼朝を崇拝したことから、江戸の町では弁財天信仰が盛んになりました。当時、庶民の間では集団での行楽が禁じられていましたが、江戸時代後期より、神仏参拝を名目とした庶民の観光が増え、江の島は大変な賑わいとなりました。

「岩本院」から「岩本楼」へ

「岩本院」は、江の島の総別当を長く務めましたが、明治以後の神仏分離の気運の高まりにより、神道をもって祀りを行うことを政府に願い出ます。これによって「岩本院」は寺主から神主職となり、「江島弁財天」は「江島大明神」となりました。

その後の明治6年、江の島でも廃仏毀釈が強行されたことから、弁財天に関連する全ての施設の取り壊しが命ぜられ、島内の弁財天像や諸国大名からの奉納品は「岩本院」へ御下渡しとなりました。

そして明治7年(1874年)3月、「岩本院」はそれまで宿坊だったことを活かし、「岩本楼」として旅館を開業します。しかし、この頃すでに江の島の参拝客は減少の一途をたどり、「岩本楼」にとっては苦難の時代の始まりでした。

江の島の発展と岩本楼

その後、明治半ばに入り、サムエル・コッキング氏による大庭園・温室の建設や、横浜在住の外国人による海水浴の利用が増え、江の島周辺も徐々に賑わいを取り戻し始めます。

また、明治20年(1887年)の藤沢駅開業、明治35年(1902年)の江ノ電開通、明治24年(1891年)の江の島弁天橋竣工などによって、江の島のアクセスが格段に向上し、首都圏在住者の保養地として栄えるようになりました。
明治~大正にかけては、皇室のご休憩・ご宿泊所としても多く用いられ、明治27年(1894年)に葉山御用邸が竣工されるまでの間、何度も当館にご宿泊いただいております。・・・

現在、当館は創業から150有余年。
時代とともに当館を取り巻く環境は大きく代わり、幾多の困難を経ながらも、皆様のおかげでこれまでの歴史を歩んでくることができました。

今後も「岩本楼本館」は、弁財天仲見世通りの風景とともに、江の島を代表する宿として親しんでいただけるよう、努力と研鑽を重ねてまいります。

(この項、「岩本楼」HPより)

※「明治政府は神道の国教化政策を行うため、明治元年(1868)3月から、神社から仏教的な要素を排除しようとしました。これが「神仏分離」政策。神名に仏教的な用語を用いている神社の書上げ、仏像を神体としている神社は仏像を取り払うこと、本地仏、鰐口、梵鐘の取外しなどを命じました。

江の島エスカー乗り場。

昭和34年(1959)に国内初の屋外エスカレーターとして登場しました。高低差46mを4分ほどで上れます。4連で結ぶエスカレーターの長さは全長106mあり、高齢者や小さな子供連れのファミリーが江の島頂上部へ行く際の頼もしい足となっています。

(「」より)

右手を見上げると、けっこう急な高さ。これは便利な乗り物。しかし、帰りのエスカレータはないので、歩いて降りてくることに。

「行きは良いよい、帰りは怖い」ではイヤので、少し腹ごなしをしてからにしようと、参道をいったん下りることに。

賑やかな坂道。

 

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小田急「片瀬江ノ島駅」~江ノ電「藤沢駅」~「鎌倉駅」。その1。

2023-06-21 18:34:28 | 境川

再びやってきました。

片瀬橋を渡り、左岸へ。

右岸を望む。

川べりのテラスへ。

江の島を望む。

左岸の突端。

右岸、西方向を望む。

          すっきりしたお天気ならば、伊豆半島その向こうに富士山などが見えそうですが。               

                     手前の突堤が前回たどり着いたところ。

振り返る。

「江の島弁天橋」。

片瀬漁港。

            雲の流れが速く、いやな予感。

             

「名勝 江の島」、

 江の島の成因と周辺の地名由来についての伝説

昔、鎌倉の深沢に周囲40里の湖があり、この湖には五つの頭を持った「五頭竜」が主として住んでいた。

この五頭竜は、洪水を起こしたり山を崩したり、或いは病気を流行させたりして暴れまわり、里人を苦しめていた。

人々は非常に困り、また大変に恐れたが、相手が竜ではどうすることもできず、少しでも竜におとなしくしてもらうために、いけにえとして村々からくじ引きで村人を供えるようにしたが、竜はそれに満足せずますます暴れまくった。

そのため、子は親と別れ、親は子を失い村人達は次々とよそへ移住していった。津村の長者には、16人の子どもがあったが、一人残らず五頭竜に飲まれ、死んだ子を恋い慕いながら他村へと逃げていった。

その時から、深沢から西へ行く道の付近を「子死越(こしごえ)」と呼ぶようになり、これが現在の腰越の地名の起こりであると言われる。

竜を恐れた人々は、続々と他村に移住し村からは人影が消え、荒れ果ててしまった。そんな時一大異変が起こった。欽明天皇13(552)年4月12日のことである。

突然起こった大地震が天地をゆるがせ、10日間も続いた。23日辰の刻にはぴたりと地震がおさまり、人々がほっとして海の方を望んだ時、今まで何もなかった子死越前方の海に忽然として一つの島が現れた。これが江の島の誕生であるという。

この天地の異変を五頭竜は見つめていた。すると天から美しい天女が五色の雲にのり、童女を従えてしずしずと湧き出たばかりの島へと降りたった。

天女の美しさに感じた竜は、やがて結婚を申し出たが、人々の幸せを任としている天女が里人を苦しめてきた竜のような者の妻には到底なれないと言って、竜の申し出をはねつけ洞窟に隠れてしまった。

しかし、どうしても思い切れない竜は、たびたび島を訪れ、ついにこれからは人々を助けることに努力することを天女と固く約束した。

それからの五頭竜は、人々を守るために日照りの時には雨を降らせ、秋の台風には体をはってはね返し、押し寄せる大波からは陸地を守り、一生懸命人々のために働いた。やがて竜のかたい心を知った天女は、竜に結婚することをゆるし、お互いに人々の幸福のために力を合わせた。

時がたつにつれ竜の体はだんだんと衰えていった。自分の寿命の尽きるのを知った五頭竜は、天女に「死んでも私は山となって島と里人を守ります。」と告げ対岸に渡り江の島の方に向かって長々と横たわり一つの山なった。

これが現在の片瀬山で、竜の口のある場所が、現在の竜の口(たつのくち)であるという。里人はこの山を竜口山と呼び、五頭竜を祭った社(やしろ)を建てた。

これが竜口寺の西隣にある竜口明神で、五頭竜の木彫りのご神体がおさめられ、今でも60年に一度の「巳年式年祭」の日には、おみこしに乗せて江の島へ渡り、天女の弁財天とあわせている。

2. 伝説から考える

伝説とは、昔話と異なり定まった場所・物・人物等があり、昔から「そういわれればそうだ」と信じる物が多く、土地にどっかりと根を下ろしたものである。

五頭竜と天女の伝説は、「江島縁起(えのしまえんぎ)」に書かれたものでこの伝説に言う江の島涌出説は、根拠のないものではない。

地質学の研究成果より見ると、江の島は、7~8万年前頃海上に姿を現し、その後隆起を重ねながら現在の姿になったと考えられるからである。

最も新しい隆起は、大正12年の関東大震災による約1mの隆起である。その長年にわたる証拠は、江の島の岩屋の中に残されている。

島の南側に発達する海蝕洞(岩屋)は断層に沿って波が浸食し形成されたものであるが、第一の岩屋に入ると高かった洞窟の天井が、ローソク配布所の先で急に低くなり、またその先二方向に洞窟が別れるあたりで少し低くなる。

つまり、海水による浸食が断層線に沿って進行し、ローソク配布所の先まで洞窟を作った時、島が隆起し洞窟は水面上に姿を現した。さらに海水の侵入が継続すると今度は下の方が削られる。こんなことの繰り返しで奧まで浸食が進んだが、その後の隆起で全体が海面上に姿をあらわし、また新たな浸食が進み始めた後大正12年の関東大震災による隆起で現在を迎えている。

「江島縁起」の涌出説は、島の隆起を取り入れたものであり、突然海底から湧き上がったという江の島誕生の不思議さと、想像を絶するような力を持った竜を結びつけ物語の信憑性を増すために付近の深沢・腰越・竜の口などの地名が巧みに取り入れられ、神秘的な島として語り伝えられることによって弁財天への信仰は、より高められてきたものだろう。

吾妻鑑の健保4(1216)年1月15日の項に書かれている、江の島と片瀬の間の海底が隆起し徒歩で島へ渡れる様になり参詣人が群をなしたということも、この伝説の信憑性をますます強くしたであろう。

3. 江の島という地名について

江の島の古図。

  • 宮城県牡鹿町 江ノ島
  • 長崎県崎戸町 江ノ島
  • 北海道島牧村 江ノ島
  • 愛媛県魚島村 江ノ島
  • 鹿児島県垂水 江之島
  • 広島県沖見町 絵の島

地名の由来、藤沢の江の島との関係等は未調査であるが、以上が他県に見られる主な「えのしま」地名である。この他神奈川県内にも江の島の地名があり、江の島との関連が伝えられている地があることはあまり知られていない。新編相模風土記稿の愛甲郡宮ヶ瀬村の項に「河中岩あり雑木生して孤島の如し、昔弁天の小祠ありしを以て江の島と字す」とあり、半原村の瀑布塩川滝の項にも、江の島淵の地名が見られる。共に淵や滝壺の水脈が、藤沢の江の島岩屋に続いているという伝承があり、塩川滝には滝壺に落とした弁当箱が、江の島の岩屋の中でみつかったという伝説も語りつがれている。

この地名の起こりは、愛川町の八菅(はすげ)山を本拠とする八菅修験と関係あり、共に八菅修験の峰入行所(廻峰行者の修行場所)であった。修験道の祖、役小角(えんのおずの)は、大和国葛城山に住み、吉野の金峰山・大峰などを開いたが、文武天皇3年、葛城の神におとし入れられ伊豆に流された。

「役行者本記」にはこの時役小角は昼は禁を守り伊豆にいたが、夜は天木、走湯、箱根、雨降、日向、八菅、江島、日金、冨士山等へ空を飛んで通ったという。

この中に江の島も含まれ、江の島の洞窟で初めて修行を行ったのは、役行者であるという伝承もあり、江の島は八菅修験の外なる聖地であった。

そのため、津久井郡石老山顕鏡寺の洞窟・八菅山覚養院の修験者胎内行用の洞窟・愛川町角田八幡宮うらの洞窟等が江の島につながっているという伝承が生まれ、修験の人々によって地名と共に伝えられてきたものである。

富士山の風穴に入った仁田四郎が、穴の奥深く進みついに江の島の洞窟に到達したという話も修験道に関係するものと思われる。

平安時代の頃、江の島も修験者によって開拓され、洞窟は信仰の道場として利用される様になったと思われる。かくて、数多くの有名無名の天台・真言系の修験者が来島することになり、この人々によって勧請されたのが弁財天であった。江の島を有名にした人々の中に、名もなき修験の人々を加えても良いのであろう。

古くから語り伝えられて来た伝説の内容をどの様に見るかは受け取る側の責任であるが、その中に含まれる歴史を読み取ることも、地域の歴史を考える上で大切な事であると思われる。

初出『ふじさわ教育』第119号

(この項、「」HPより)

ここにある「役小角」に関して。

生年:生没年不詳
7,8世紀の呪術的宗教家,役行者の名で修験道開祖とされる。賀茂の一族,のちの高賀茂朝臣の出身で,大和国葛木上郡茅原村(奈良県御所市)の人と伝えられる。大和国葛城山で修行し,呪術にすぐれた神仙として知られ,多くの伝説が生み出された。五色の雲に乗り,大空を飛び,神仙の宮殿で神仙と交わり,心身を養う霊気を吸いたいと願い,岩窟に籠もり,葛を身にまとい,松の葉を食べ,清泉で沐浴し,世俗の汚れを落とし,山林で修行した。孔雀王の呪法を修得し,鬼神を使役して,水を汲ませたり,薪を採らせたりし,鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した。役優婆塞とも称されるように,仏道修行者とされるが,不老長生の神仙となるために,山林に籠もり,穀物を口にしないで,松の葉や草の根を食料として修行に専心していたので,道教の医術や方術に習熟した行者であった。 文武3(699)年,弟子の韓国連広足に妬まれて,妖術で人々を惑わしていると密告され,伊豆国に流罪にされた。また別に,大和の金峰山と葛城山の間に橋を架け渡せと神々に命じたところ,神々は嘆き,葛城山の一言主大神がある人に乗り移って,役小角が陰謀を企んで,天皇を滅ぼそうとしていると讒言したといわれる。天皇は捕らえようとしたが,役小角の験力のためにかなわず,代わりに母親を人質として捕らえた。母を釈放してもらうために,自ら囚われの身となり,流刑となったが,昼間は伊豆で,夜間は富士山に登って修行を重ね,遂に天を飛ぶことができるようになり,罪を許されると,神仙となって天空に飛び去ったといわれる。修験道の本尊,蔵王権現は,金峰山上で役小角が衆生を救済するのにふさわしい仏を出現させようとして祈願して,湧出させたものという。修験道の開祖として,寛政11(1799)年には,朝廷から神変大菩薩の諡号が贈られた。<参考文献>『続日本紀』,景戒『日本霊異記』

(川村邦光)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典

※修験道は仏教に神道が交じった山岳宗教。

さて、江の島へ向かいます。        

               「江の島周辺トイレマップ」。

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向島百花園。カルガモ親子はどうなったのか? そして夏模様。半夏生。ネムノキ。秋の七草。・・・

2023-06-19 18:34:04 | 向島百花園

向島百花園。6月カルガモ親子。その後どうなったのか? 確かめたくて出かけました。6月17日(土)

いました! 親と雛が6羽くらい。

     

        雛たちは元気で泳ぎ回り、親は木下で毛繕い。まもなく旅立ちかも。

訪れた方たちも興味深そうに、しばらく様子を眺めています。

スカイツリー。緑がすっかり濃くなった園内。

           

芭蕉も随分伸びてきました。

半夏生(はんげしょう)が咲いています。

開花時期は、 7/ 1 ~ 7/20頃。 ・上の方の葉っぱが、  ペンキをべったり塗ったように  白くなるのがおもしろい。 ・「半化粧」  「半夏生」  「片白草(かたしろぐさ)」  など、いろんな呼び名がある。

・花期に葉が白くなるのは、  虫媒花であるために  虫を誘う必要から  このように進化したのではないか、  といわれている(白くて目立つ)。

・花は葉と同じく白で、紐状。 ・花が咲き終わって  夏の盛りの頃になると、  白い葉の白い部分は色落ちして、  ふつうの緑色っぽくなる。 ・山の水辺に群生することが多いが、  都会でもときどき  植えられてるのを見かける。

■名前の由来 「半夏生」(はんげしょう)   夏至から数えて11日目頃   (もしくはその日からの5日間)を   「半夏生」と呼ぶが、   その頃に花が咲くことから。  ※「半夏生」=「1年の真ん中」    1/1~12/31の1年の、真ん中。    「7月2日」のことが多い。    「7月1日」のこともある。    タコを食べる日、で知られる。 (なんでだろ?)

(この項、「」HPより)

タコを食べる風習について、

夏といえば“タコ”、“タコ”といったら“半夏生(はんげしょう)”。
半夏生は節分や土用などと同様の雑節の中の一つで、関西地方ではタコを食べる日としての風習が残っています。
今でもスーパーの鮮魚売り場には、半夏生の日にたくさんのタコが並びます。

半夏生にタコを食べる理由はどこからきているのでしょうか?

半夏生とタコ

昨年(2020年)の総務省統計局「家計調査 1世帯(2人以上)当たり日別支出」のデータを項目別に見てみると、半夏生にはタコがたくさん買われているのが読み取れます。

(出典:家計調査 1世帯当たり1か月間の日別支出 2020年6月~7月)

日本では古来、立春や夏至など中国から伝わってきた二十四節気とは別に、雑節(ざっせつ)という暦日があります。雑節は、日本人の生活文化や農習慣を踏まえて設けられてきた歴日です。 半夏生のころはちょうど梅雨明け間近。田植えの終わりの季節を示す目印とされていたのでしょう。

半夏生にタコを食べる理由は、8本足のタコの吸盤が吸い付く様にあやかり、「苗がしっかり根を張りますように」という願いを込めて、神様にタコを捧げたからといわれています。
また、半夏生の時期は、「田植えの疲れを癒す養生の時期」ともされています。このことも、半夏生にタコを食べる理由かもしれません。

(この項、「」HPより)

                

ネムノキ。

手向山。

  秋の七草の一つ、ききょう。

こうして季節が確実に移っていくのですね。

                       6月21日(水)夏至。

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横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その8。小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。片瀬橋。右岸突端。江の島。

2023-06-18 13:45:48 | 境川

これまで歩いてきた利根川、荒川、江戸川、多摩川などと異なり、河口まで住宅が続きます。

山本橋。

漁船(ボート)がたくさん係留されています。

正面に、江の島が見えてきました。

残り500m。

河口付近に架かる「片瀬橋」。

     

小田急江ノ島線「片瀬江ノ島駅」。

       龍宮城を模したユニークなデザインの駅舎。江の島の「五頭龍と天女の伝説」にちなんだ天女と龍の装飾を施している。

片瀬橋のたもとで小休止。        

     右手に江の島へ渡る歩道橋。

片瀬橋から河口を望む。

片瀬漁港。

岸壁の突端まで歩きます。

                               手前に釣り人が数人。

ここが右岸の河口? 

西側を望む。

東側を望む。左岸の突端が。

              

                       台風2号の影響か、波が高い。

上流を望む。

江の島方向。

右岸歩きはここまで。次回は、江の島めぐりをする予定です。

<img src="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/a0/8d1803077c0d7fa39db867a6df65605d.png">

(「今昔マップ」より)

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横浜市営地下鉄「湘南台駅」~小田急「片瀬江ノ島駅」。その7。鵠沼の今昔。

2023-06-17 13:38:01 | 境川

※鵠沼の今昔。今は住宅地が広がっていますが、かつては、

                            1880年代のようす。荒涼たる砂浜が広がっている。

現在は、

                            住宅がびっしりと。2010年代のようす。

戦前から鵠沼海岸として開発・整備され、住宅が増えてきています。

神奈川県による湘南海岸開発

1923年(大正12年)の関東大震災では相応の被害が出たが、より被害が深刻だった都内から政治家、官僚、企業家、高級将校等が続々と転居してくることにより、鵠沼は別荘地から高級住宅地へと変貌することになる。

震災からの復興は急ピッチで進められた。・・・

1929年(昭和4年)の小田急江ノ島線開通をきっかけに、別荘地と農村部の中間地帯には、宅地開発が行われ、建て売り住宅の建設が進められた。この段階での住宅地は100坪以上の敷地を有し、現在も東京近郊の高級住宅地の一つとして有名である。

1930年代は神奈川県の手で湘南海岸の国際観光地化が図られた。折しも世界恐慌の時代と重なるが、失業対策事業という名目も加わってインフラストラクチャー整備が進められた。

主な事業としては、県営湘南水道、湘南遊歩道(鎌倉郡片瀬町-中郡大磯町 現国道134号)敷設、さらに引地川の河川改修と鵠沼堰の建設などである。鉄道省海の家開設、幻の東京オリンピックを見越した県営鵠沼プール(後に藤沢町に移管)の建設が加わった。

日中戦争が泥沼化し、日本が国際社会から孤立化すると、「国際観光地」としてのもくろみは画餅に帰したが、国内有数の海水浴場として、つかの間の賑わいを見せるようになった。しかし、東屋が廃業した1939年(昭和14年)ころから、次第に軍国主義の陰が覆うようになってくる。

皇紀2600年を国を挙げて祝った1940年(昭和15年)10月1日、藤沢町は市制を敷き、藤沢市となる。それから1年余、太平洋戦争に突入する。戦争が激化すると、疎開先に選ばれた鵠沼の人口は激増した。重爆撃機による空襲はほとんどなかったが、艦載機による機銃掃射は日常的になった。

戦後もしばらくは南東部の旧別荘地には松の翠が色濃く残り、北西部の農村地帯は村落共同体としての伝統が脈々と受け継がれていた。

(この項、「Wikipedia」参照)

「海から2.0㎞ 標高5.1m」。

下藤が谷公園。

小池に水中に潜るカルガモ。

「江の島シーキャンドル」が見えてきました。

久々に「飛び出し坊や」。

「海から1.5㎞ 標高3.5m」。

振り返る。

クロマツ。海岸らしい雰囲気。

釣り船が係留されています。

「海から1.0㎞ 標高3.0m」。あと15分足らずで河口に到着予定。  

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