斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

69 【コロナ禍、沈黙の春、球春&砂川闘争】

2020年05月02日 | 言葉
 鳥は啼(な)かない
 新型コロナウイルス禍のせいばかりではないのだろうが、今年の春は何かヘンだ。筆者の家は東京の西郊外、東京都の地図を広げると真ん中あたりに位置するが、毎年今頃になると、さらに西の奥多摩の山から下りて来たウグイスが、神社の杜(もり)や農家の屋敷林の、芽吹いたばかりの木々の間で啼き始める。最初は「ホー、ホケキョ」でなく「ホッ、ホッ、キョ」や「ホキョ、ホキョ」などと覚束ないが、数日経つと「ホー、ホケキョ」と立派に(?)啼くようになる。変化のほどを聴き分けることが、毎春のちょっとした楽しみなのだが、今年はまだあの声を耳にしていない。
 やはり暖かくなると群れでやって来るオナガも、1月末に1度姿を見せたきり。その時は「今年は早いナ。暖冬の影響かナ」とも思ったが、今は20度を超える陽気の日もあるというのに、さっぱり見かけない。ウグイスとは反対に「ギューイ、ギィー、ゲー」と悪声で啼くが、汚らしい声さえもが今は懐かしい。

 大人たちで騒がしい児童公園
 筆者宅の西隣に田んぼ1枚(千平方メートル)ほどの広さの児童公園がある。ふだんは静かだが、緊急事態宣言により外出自粛要請が出て以後、かえって騒がしくなった。子供たちが家で勉強している午前中は数人を見かける程度でも、正午過ぎには一変する。テレワークや自宅待機の大人たちも繰り出して、さして広くもない公園内がたちまち”三密”状態と化してしまう。
 見ていると概して大人は遊び方が下手だ。こうした場所で遊び慣れていないのか、他者への配慮が出来ない。たとえば大人同士でキャッチボールをする。ボールが飛んで来れば怖いから、子供たちは遠巻きにして近づかない。大人2人の気晴らしが、大勢の子供たちから遊びのスペースを奪っていることに気づかない。いや、知らぬふり、かもしれない。サッカーボールを蹴り合う親子連れもいる。
 たぶん、クタクタになるまで働くことに慣れた大人たちには、家でじっと待機し続ける方がストレスになるのだろう。午後の一ときくらいは体を動かしたい--。気持ちは分かるが、子供の領域に足を踏み入れるなら、子供に迷惑にならぬように願いたい。

 沈黙の春
 今年の晴れた空は、例年より青いような気がする。コロナ禍による営業自粛、外出自粛のせいで二酸化炭素の排出が少なくなったためとも思えるが、どうだろうか。筆者宅の上空は埼玉と神奈川両県の自衛隊基地を結ぶ航空ルートになっていて、ふだんなら1日に1度は大型ヘリコプターが編隊を組んで行き来する。爆音すさまじく”空の暴走族”を思わせるが、ここ最近は見ていない。ジャンボ機の機影や飛行機雲も見なくなった。航空各社が航空便を大幅削減しているためだろう。実はジャンボ機は大変な量の二酸化炭素を吐き出し、大気汚染の隠れた主役である。世界を網の目のように覆う航路の便が7割8割と減っているのだから、空の色が例年より青いのは当然かもしれない。

 小鳥も公園も飛行機も、今年の春は異様だ。筆者の連想回路には「沈黙の春」というコトバが、しきりに浮かぶ。地球規模で進む化学薬品汚染を告発した、アメリカ人生物学者レイチェル・カーソン女史の著書名(新潮文庫に収録)である。
<鳥がまた帰ってくると、ああ春がきたな、と思う。でも、朝早く起きても、鳥の鳴き声がしない。それでいて、春だけがやってくる--。合衆国では、こんなことが珍しくなくなってきた。(中略)急に鳴き声が消え、目をたのしませた色とりどりの鳥も姿を消した。突然、知らぬ間に、そうなってしまった>(『沈黙の春』「八、そして、鳥は鳴かず」より。青樹簗一訳)

 球春
 スポーツ観戦のファンにとって、とりわけ静寂を実感させる理由は、各種のスポーツ中継が無いことだろう。プロ野球しかり、選抜高校野球しかり、プロゴルフしかり、やっても無観客の大相撲しかり‥‥。会場からファンの声援が消え、熱気を欠いた無観客試合では、陳腐な例えながら気の抜けたビール、ナマはナマでも生温かなビールだ。スポーツの盛り上がりは、ファンの声援によって演出される。
 プロ野球のキャンプ地でオープン戦が始まる頃、野球好きの筆者などは、やっと春が来たナ、と思う。バットが見事速球をとらえた時の「カーン」という快音には、長かった冬を打ち破る、独特の季節感がある。しかし今年は、それも聞こえて来ない。去年、1昨年と楽しみにしていたアメリカ大リーグ中継。大谷翔平は今頃どうしているのか。新聞の見出しに必ず登場していた「球春到来」のコトバも今年は見ない。

 &砂川闘争
「ウチの人事部長が『球春』というコトバを造語して、最初に新聞記事で使ったンだよ」
 新聞社に入社して新人研修を受けていた時、人事部員の一人から、そんな話を聞いたことがある。人事部長のUさんは社会部出身だから、社会面のいわゆる「絵解き記事」だったのかもしれない。当時そのことに関心も無く、Uさんに確かめる機会も無かったから、真実かどうかは分からない。勘違いかもしれない。人事部長になる前は組合委員長として活躍し、伝説になるほど心酔者が多かったようだ。その後は報知新聞社の社長も務められた。

 静まり返ったまま得るところなく終わりそうな今年の春だが、そのUさんに出会えた。とはいえUさんは、すでに鬼籍に入られている。会ったというのは、Uさんが共著者のルポ『砂川町合戦録』(1957年、現代社刊)を読む機会に恵まれたことだ。
 砂川闘争は1955年から1960代まで米軍立川基地の砂川町域(現在は立川市)で繰り広げられた、基地拡張反対の住民運動である。現場は筆者の家にも近い。Uさんは、のちに朝日新聞の副社長に就くIさん、共同通信のNさんとの社会部記者3人で、反対運動の渦中に突然立つことになった素朴な農民たちの悲喜こもごもを、深刻かつユーモラスに書き描いた。硬いテーマながら筆致は軟らか。異なる新聞社の記者3人の共作というのも珍しい。思わぬ人の若き日の、記者としての熱気が読み取れたことは、沈黙の春にあっても大きな収穫だった。