斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

断想片々(12) 【「新型コロナウイルス感染者数」と陽性率】

2020年05月05日 | 言葉
 毎日発表される「新型コロナ感染者」の数字。政府専門家会議の当初予測より、減少テンポが緩慢らしい。専門家たちは、もっと急角度で感染者数が減少するものと予測していたとか。そもそも、それほど信頼の置ける数字だったのか。

 分母なき分数
 発表される数字に不完全さを覚える理由は、分母無き分数であること。つまり「何人検査して(分母)、何人が陽性(分子)だったか」で考えると、「何人検査して」の部分が無い。同じ10人の陽性者数でも、検査した人が100人だったか、20人かで、陽性率に5倍の違いが出る。陽性率は重要な指標だ。検査人数なら即座に出る数字のはずだが、なぜ発表しないのか、なぜメディアは発表を求めないのか。理解に苦しむ。

 感染者数のみでも意味があるのは、検査希望者が容易に検査出来る場合である。ドライブスルー検査で容易かつ短時間で検査出来た韓国でなら、数字は客観的な感染状況を反映するだろう。しかし日本のように検査に厳しい制限がある国では、「制限」の手加減次第で、ある程度は感染者数(分子)を変えられる。にもかかわらず100人を検査して11人の陽性者を数えた昨日より、20人の検査で9人の陽性者だった今日の方が、事態は好転しているように見えてしまう。

 数値による「見える化」を歓迎
 厳しい検査制限の背後にそれなりの理由があるとしても、自宅待機のまま検査さえ受けられずに死んでいった感染者の無念は、いかばかりだろうか。大多数の日本人と同様、日本は医療先進国だと信じていたに違いない。大阪府の吉村洋文知事は4日夜のANN系テレビ報道番組に出演し、府独自の緊急事態緩和策として、数値を示したうえでの「見える化」を提案し、日ごと公表する3つの数値に「陽性率」も含めた。歓迎したい。国民の信頼は、情報を隠すことでなく、すべてを明らかにすることから生じる。