アジサイ
小学校に入学して初めて覚えた花の名がアジサイ(紫陽花)だった。普通なら幼稚園か何かでサクラやチューリップから覚えるところかもしれないが、筆者は幼稚園へは3日間しか行っていない。何が理由かは忘れたが、4日目の朝に「もう行きたくない」と母に告げると、母は笑いながら「おや、これが本当の3日坊主だねエ」と言い、叱られることはなかった。
アジサイは、2軒置いたフジタさん宅の玄関前に咲いていた。1年坊主にしては大き過ぎる傘の向こうに、雨に濡れる青紫の花々を見ながら小学校へ通った。ピンクや白い花の記憶はなく、青や紫色ばかり。梅雨どきの暗い空の下で雨に打たれる、鮮やかな色彩の花々が、今でも目に焼き付いている。
語源に「あず=集まる」と「さい=藍色」が一つになった、との説がある。「あずさい」という古名もあるようだ。また、開花から花の色が少しずつ変化するところから「七変化(しちへんげ)」や「八仙花(はっせんか、あじさい)」と呼ばれることも。
<紫陽花や はなだにかはる きのうけふ>(正岡子規)
<あぢさゐや きのふの手紙はや古ぶ>(橋本多佳子)
「はなだにかはる」は「花でさえ変わる」、「はや古ぶ」は「早くも古くなる」の意。色彩心理学的に言うと、青や紫は変化を求める気持ちの強い時に好みがちな色だとか。紫色が好きな人は浮気っぽい、とも。古希過ぎてなおアジサイの青紫色が目に焼き付いている理由は、四六時中、気が変わっているからなのか、それとも愚直なほど変わらないためなのか。
矢車草と矢車菊
「今の季節で好きな花は何ですか?」
「ヤグルマソウかな」
「地味な花が好きなのね」
「そうかな、地味かなア‥‥」
むかし花に詳しい女性に問われて答えたら、不審げな顔をされた。主観だから仕方がないかナと、その時は思った。矢車草(ヤグルマソウ)と呼ばれる花に2種類あると知ったのは、最近のこと。今にして思えば不審顔の理由は、互いに別の花を思い浮かべていたせいかもしれない。
筆者の頭にあった矢車草は、キク科ヤグルマギク属のヨーロッパ原産種で、別名が矢車菊(ヤグルマギク)。ピンポン玉より小さめの青い花を、草丈8、90センチほどの茎の、てっぺんに咲かせる。野生種は青色のみだが、園芸種には白やピンクの花もある。雑草並みに強く、農村では「麦畑に侵入すると、麦を枯らす」と嫌われた。それでも、かつては農家の庭先によく咲いていたものだが、今はあまり見かけない。ドイツや北欧エストニアでは国花になっているほどだから、見栄えもするし「地味な」印象ではない。ウィキペディアによれば、ヨーロッパではマリー・アントワネットが好んだ花として知られるらしい。
一方、女性が思い浮かべていた矢車草は、ユキノシタ科ヤグルマソウ属の日本古来種の方だろうか。1センチにも満たない小さな白い花を咲かせ、姿かたちも「地味」。このような花まで知っていたとは、さすがに花の知識が豊富な人らしい。ちなみに「矢車」は、こいのぼりの先端を飾る風車に似ているところから。ともに花の形が「矢車」を連想させ、こいのぼりが大空にひるがえる初夏に咲く。
混同を避けるため近年は外来種の方を「矢車菊」と、古来種の方を「矢車草」と呼び分けるようになった。しかしホームセンターなどでは、園芸用の「矢車菊」の種子が「矢車草」の名で売られている。
<清貧の閑居 矢車草ひらく>(日野草城)
<住みのこす矢車草の みづあさぎ>(中村灯女)
清貧の身でも手に入れやすい庶民的な花。矢車菊の学名「Centaurea cyanus」の「cyanus」は「あさぎ(浅葱)色」のこと。「みづあさぎ」は薄い藍色。
どくだみ
名前で損をしている花かもしれない。まるで毒草のように聞こえるし、強い香りを嫌う人も多い。しかし反対に、むかしは利尿や虫下し、痔疾、皮膚病などの民間薬として幅広く使われた。別名「十薬(じゅうやく)」。「毒痛み」(毒消し)のほか語源に諸説がある。花びらに見える白十字の4枚は花弁でなく、花は真ん中の黄色い穂の部分だ。
孫娘のちいちゃんは2、3歳の頃、庭に咲く草花を摘んでは保育園へ持って行き、先生方にプレゼントしていた。先生方が「まあ、ちいちゃん、ありがとう!」と大袈裟に喜んでくれるものだから、ちいちゃんも、すっかりその気になった。なかでも、どくだみは大好きな花。自転車のチャイルドシートで、摘んだばかりの白い花を束にして握りしめ、登園した。よく見れば、おさな児の小さな手に似合う、素朴な花である。
<さからはず十薬をさへ茂らしむ>(富安風生)
<十薬を抜きすてし香につきあたる>(中村灯女)
<どくだみや真昼の闇に白十字>(川端茅舎)
<十薬や四つの花びら よごれざる>(池内友次郎)
暗く湿気がちの場所に他の草を押しのけて繁茂するので、草むしりの際は厄介モノ。根ごと抜いた手に強い香も残る。好き嫌いはあるだろうが、しかし筆者はこの香りが好きだ。厄介モノと見られる一方で、花としての清純さを愛(め)でる句も多数。
小学校に入学して初めて覚えた花の名がアジサイ(紫陽花)だった。普通なら幼稚園か何かでサクラやチューリップから覚えるところかもしれないが、筆者は幼稚園へは3日間しか行っていない。何が理由かは忘れたが、4日目の朝に「もう行きたくない」と母に告げると、母は笑いながら「おや、これが本当の3日坊主だねエ」と言い、叱られることはなかった。
アジサイは、2軒置いたフジタさん宅の玄関前に咲いていた。1年坊主にしては大き過ぎる傘の向こうに、雨に濡れる青紫の花々を見ながら小学校へ通った。ピンクや白い花の記憶はなく、青や紫色ばかり。梅雨どきの暗い空の下で雨に打たれる、鮮やかな色彩の花々が、今でも目に焼き付いている。
語源に「あず=集まる」と「さい=藍色」が一つになった、との説がある。「あずさい」という古名もあるようだ。また、開花から花の色が少しずつ変化するところから「七変化(しちへんげ)」や「八仙花(はっせんか、あじさい)」と呼ばれることも。
<紫陽花や はなだにかはる きのうけふ>(正岡子規)
<あぢさゐや きのふの手紙はや古ぶ>(橋本多佳子)
「はなだにかはる」は「花でさえ変わる」、「はや古ぶ」は「早くも古くなる」の意。色彩心理学的に言うと、青や紫は変化を求める気持ちの強い時に好みがちな色だとか。紫色が好きな人は浮気っぽい、とも。古希過ぎてなおアジサイの青紫色が目に焼き付いている理由は、四六時中、気が変わっているからなのか、それとも愚直なほど変わらないためなのか。
矢車草と矢車菊
「今の季節で好きな花は何ですか?」
「ヤグルマソウかな」
「地味な花が好きなのね」
「そうかな、地味かなア‥‥」
むかし花に詳しい女性に問われて答えたら、不審げな顔をされた。主観だから仕方がないかナと、その時は思った。矢車草(ヤグルマソウ)と呼ばれる花に2種類あると知ったのは、最近のこと。今にして思えば不審顔の理由は、互いに別の花を思い浮かべていたせいかもしれない。
筆者の頭にあった矢車草は、キク科ヤグルマギク属のヨーロッパ原産種で、別名が矢車菊(ヤグルマギク)。ピンポン玉より小さめの青い花を、草丈8、90センチほどの茎の、てっぺんに咲かせる。野生種は青色のみだが、園芸種には白やピンクの花もある。雑草並みに強く、農村では「麦畑に侵入すると、麦を枯らす」と嫌われた。それでも、かつては農家の庭先によく咲いていたものだが、今はあまり見かけない。ドイツや北欧エストニアでは国花になっているほどだから、見栄えもするし「地味な」印象ではない。ウィキペディアによれば、ヨーロッパではマリー・アントワネットが好んだ花として知られるらしい。
一方、女性が思い浮かべていた矢車草は、ユキノシタ科ヤグルマソウ属の日本古来種の方だろうか。1センチにも満たない小さな白い花を咲かせ、姿かたちも「地味」。このような花まで知っていたとは、さすがに花の知識が豊富な人らしい。ちなみに「矢車」は、こいのぼりの先端を飾る風車に似ているところから。ともに花の形が「矢車」を連想させ、こいのぼりが大空にひるがえる初夏に咲く。
混同を避けるため近年は外来種の方を「矢車菊」と、古来種の方を「矢車草」と呼び分けるようになった。しかしホームセンターなどでは、園芸用の「矢車菊」の種子が「矢車草」の名で売られている。
<清貧の閑居 矢車草ひらく>(日野草城)
<住みのこす矢車草の みづあさぎ>(中村灯女)
清貧の身でも手に入れやすい庶民的な花。矢車菊の学名「Centaurea cyanus」の「cyanus」は「あさぎ(浅葱)色」のこと。「みづあさぎ」は薄い藍色。
どくだみ
名前で損をしている花かもしれない。まるで毒草のように聞こえるし、強い香りを嫌う人も多い。しかし反対に、むかしは利尿や虫下し、痔疾、皮膚病などの民間薬として幅広く使われた。別名「十薬(じゅうやく)」。「毒痛み」(毒消し)のほか語源に諸説がある。花びらに見える白十字の4枚は花弁でなく、花は真ん中の黄色い穂の部分だ。
孫娘のちいちゃんは2、3歳の頃、庭に咲く草花を摘んでは保育園へ持って行き、先生方にプレゼントしていた。先生方が「まあ、ちいちゃん、ありがとう!」と大袈裟に喜んでくれるものだから、ちいちゃんも、すっかりその気になった。なかでも、どくだみは大好きな花。自転車のチャイルドシートで、摘んだばかりの白い花を束にして握りしめ、登園した。よく見れば、おさな児の小さな手に似合う、素朴な花である。
<さからはず十薬をさへ茂らしむ>(富安風生)
<十薬を抜きすてし香につきあたる>(中村灯女)
<どくだみや真昼の闇に白十字>(川端茅舎)
<十薬や四つの花びら よごれざる>(池内友次郎)
暗く湿気がちの場所に他の草を押しのけて繁茂するので、草むしりの際は厄介モノ。根ごと抜いた手に強い香も残る。好き嫌いはあるだろうが、しかし筆者はこの香りが好きだ。厄介モノと見られる一方で、花としての清純さを愛(め)でる句も多数。