斉東野人の斉東野語 「コトノハとりっく」

野蛮人(=斉東野人)による珍論奇説(=斉東野語)。コトノハ(言葉)に潜(ひそ)むトリックを覗(のぞ)いてみました。

71 【唱歌「椰子の実」】

2020年06月30日 | 言葉
 翼をいっぱいに広げた鷹(たか)が数羽、黒松林の空に浮かぶ。初夏の風は潮の香りを載せて白砂の浜に吹き渡る。やさしい景観の恋路ヶ浜や、延々浜名湖まで力強く続く片浜十三里。愛知県・伊良湖(いらご)岬は、いつの頃からか鳥たちの「渡り」の中継地となり、上空は彼らの道となった。特徴ある地形が空からも格好の目印になるためだ。
<鷹一つ見付けてうれし いらご崎>
 岬を訪れた芭蕉は「笈の小文(おいのこぶみ)」に上の句を残した。罪を得てこの地に流された弟子、杜国(とこく)を訪ねる旅だった。芭蕉と杜国の関係にここで触れる余裕はないが、「うれし」と子供のような、つまり芭蕉らしくない(?)ストレートな感情表現に首を傾(かし)げた人は、調べてみると良いかもしれない。動機が、もう一つ。師と仰ぐ西行も伊良湖岬で鷹を詠み、歌を「山家集」に残していたことだ。

 一、名も知らぬ遠き島より 流れ寄る椰子(やし)の実一つ 故郷(ふるさと)の岸を離れて 汝(なれ)はそも波に幾月(いくつき)(作詞・島崎藤村、作曲・大中寅二)

 民俗学者の柳田国男(1875-1962)も東大生時代に、この岬を訪れた。明治31年のこと。知り合いの日本画家に風光の素晴らしさを吹き込まれてのことだったという。夏の2か月間を過ごし、風の強かった日の翌朝などに3度まで、漂着した椰子の実を目撃した。
「一度は割れて真白な果肉の露(あらわ)れ居るもの、他の二つは皮に包まれたもので、どの辺の沖の小島から海に泛(うか)んだものかは今でも判らぬが、ともかくも遥かな波路を越えて、まだ新しい姿でこんな浜辺まで、渡って来て居ることが私には大きな驚きであった。この話を東京に還(かえ)って来て、島崎藤村君にしたことが私には良い記念である」(柳田国男著『海上の道』から)
 柳田から話を聞いて、島崎藤村(1872-1943)も心を動かす。明治33年、構想を得て詩作した藤村は、「海草」と題し詩集『落梅(らくばい)集』に収めた。

 歌としてはずっと後で日の目を見る。昭和11年7月、NHK大阪放送局が国民歌謡として放送した。この歌が国民の耳に届いた最初だった。メロディーは東京・霊南坂教会でオルガン奏者をしていた大中寅二(1896-1982)がつけた。
 同志社大学卒業直後から作曲家の山田耕筰に師事。教会音楽を学ぶためドイツへ留学後、霊南坂教会に近い東洋英和女学院短大で教授として教鞭をとった。カンタータ20数曲、オルガン曲実に千曲以上を作曲するなど、日本の宗教音楽分野に大きな足跡を残す。ちなみに作曲家の大中恩(めぐみ)は寅二の子息。恩も『サッちゃん』や『いぬのおまわりさん』など、よく知られた童謡を作曲している。

 二、旧(もと)の木は生(お)いや茂れる 枝はなお影をやなせる われもまた渚(なぎさ)を枕 独身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ

 東海林太郎が歌う『椰子の実』は、たちまち全国へと広まった。当時の柳田は「でも、ちょっと違うんだな。藤村君の歌はね‥‥」と言って苦笑していたという。
「『実を取りて胸に当つれば 新たなり流離の愁い』という章句などは固(もと)より私の挙動でも感慨でも無かった上に、海の日の沈むを見れば云々(うんぬん)の句を見ても、或いは詩人は今すこし西の方の、寂しい磯ばたに持って行きたいと思われたのかもしれないが、ともかくもこの偶然の遭遇によって、些々(ささ)たる私の見聞も亦(また)不朽のものとなった」(『海上の道』から)
 柳田が指摘した章句は三番の歌詞中に登場する。浜に漂着した椰子の実に、藤村は詩人らしい感性で落涙した。詩人の側面がとりわけ色濃く出たのが三番だ。一方の柳田は若い頃に新体詩を書きもしたが、何より学者、研究者だった。涙を落とす前に、椰子の実がはるか海を越えて伊良湖岬まで流れ着いた事実に、一民俗学徒の目で驚嘆した。そして、稲作を核とした文化もまた南方から日本へ流れ着いたのではないか--という学説のヒントとした。文化は人と一緒にやって来る。ならば日本人の起源には南方の民も含まれていたはずである、と。
 『椰子の実』が発表された昭和11年、二・二六事件が起き、日独防共協定が調印された。唱歌もまた時代の中で生まれ育つものだとすれば、南方の島々への国民の素朴な憧れが、軍事進出の意図と微妙に重なり合った側面も否定できない。

 三、実をとりて胸に当(あ)つれば 新(あらた)なり流離(りゅうり)の憂(うれい) 海の日の沈むを見れば たぎり落つ異郷の涙
   思いやる八重の汐々(しおじお) いづれの日にか国に帰らん


 沖縄や奄美諸島にはニライカナイという信仰がある。海の果てや海底に神々の国があり、そこがニライカナイだ。仏教渡来以前から日本にあった固有の信仰とも考えられる。『古事記』で山幸彦が訪れた綿津海(わたつみ)の国や、浦島太郎の過ごした竜宮城は、どちらも形の異なるニライカナイである。
 たとえば仏教やキリスト教の天国と地獄。仏教の考え方で、世界の中心にそびえる聖地・須弥山(しゅみせん)。両宗教とも天国は明るい空の彼方に、地獄は暗い地の下にあって、上下高低の位置関係で説明される。これに対し、ニライカナイ信仰では人も神の国も水平の関係にある。生を終えた霊が、罪の軽重を問われることなく、等しく行き着く場所。漂着した数個の椰子の実がもたらした感動を、藤村は詩へ、柳田はある意味のユートピア説へと結晶させた。ニライカナイ信仰は”柳田民俗学”の重要な核の一つであり、その出発点には「流れ寄る椰子の実」の発見があった。

 伊良湖岬のある旧渥美町観光協会(現・田原市)は、昭和63年から「遠き島」に見立てた沖縄県石垣島沖から毎年6月、椰子の実に目印を付けて海に流し、伊良湖岬漂着にチャレンジする観光イベントを実施している。平成13年の8月には初めて漂着が確認されて以来、以後も漂着する例が多く、毎年明るい話題を提供している。
(本稿は、岩波現代文庫『唱歌・童謡ものがたり』の中から、当時筆者が執筆した「椰子の実」の項を、書き改めたものです)