スーツ姿でコンビニ食をかきこむ男性を気の毒に思う

2015年03月26日 | 日記
昼時にコンビニへ行くと、スーツ姿の男性が店先で煙草を吸ったり、ドリンクを飲んだり、車の中で食事をしている姿を見かける。

多くの人にとって、日常的な風景で珍しくもないのだろうけれども、私にとっては違和感を覚える奇異なものである。

高度プロフェッショナル制度なるけったいな名前で生まれ変わった「時間ではなく成果で評価する」とかいう制度は、8年ほど前の第一次安倍内閣のときには、ホワイトカラーエグゼンプションという名称だった。

あの当時、すでに「ホワイトカラー」なる言葉の意味は、その言葉ができた当初とはるかにかけ離れたものになっていた。にもかかわらず、「ホワイトカラー」にあてはまるような人たちを乱暴にくくったので、対象となる労働者がずいぶん多くなり、残業代ゼロ法案、過労死促進法案などと言われ頓挫してしまった。

第二次産業が全盛だったころの「ブルーカラー」「ホワイトカラー」をそのまま用い、しかも欧米のように区分けがはっきりなされていない日本で、表面上の「ホワイトカラー」を無理やりもってきたのが悪かったのだろうが、にしてもセンスの欠如が致命的だ。

今じゃだれも「ホワイトカラー」なんて言葉は使わないけど、車の中でカップラーメンやおにぎり、菓子パンを食べているスーツ姿の男性を、死んだばあちゃんが見たら「かわいや、かわいや(可哀想の意)」「白いワイシャツ着とるもんがなんであんなとこであんなもん食べんなんがや」と言って、涙を流して気の毒がったと思う。

大正の初めに生まれた祖母にとって、野良着や作業着ではなく、ワイシャツと背広を着て働くのは「勉強のできる人」「いい給料をもらう人」「力仕事ではなく、頭を使う仕事をする人」の象徴である。今生きていたとしても、時代の変容を理解はできないだろうから、「背広着て雇われとって生活できんてどういうことや」「野良着きて天気に振り回されとるがでもないのに」「力仕事でもないのに働きすぎて死ぬのはわけわからん」と途方に暮れるだろう。

野良着や作業着がスーツというお仕着せに変わっただけとは理解できないだろう。

コンビニを日常的に利用している人は決して自分たちをかわいそうには思っていないし、みじめにも思っていないはずだ。

それでも私は死んだばあちゃんと同じように、彼らを気の毒に思う。コンビニではなく、イタリアのバールのようなものがコンビニ並みにできたらと思う。せめて飲食スペースのあるコンビニが増えてくれたらと思う。
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