『法学教室』2月号の特集が「法律の性格から読みとく労働法」だったので、久しぶりに購入して特集から読み始めたのだが、すぐに挫折してしまった…
だーっと飛ばして、「法の世界へのバイパスルート~社会科学からみる法制度」へいくと、社会と世間についての面白い記述があった。
日本では「社会」の観念は人々の思考の中にしっかりと定着していない。明治時代にSocietyの訳語として「社会」という言葉が用いられるようになった。それまでの日本にあったのは「世間」である。
舶来の「社会」と日本の「世間」のもっとも著しい相違点は、「社会」は自己から切り離されて対象化されたものであるのに対して「世間」は個人から明確に分離しておらず、対象化しえないものだということだ。
「世間」は個人が立ち向かうことができる対象とは考えられていない。そもそも「世間」は境界線からして不明瞭で、とらえどころがない共同幻想である。個人は社会を変えることはできるが世間を変えることはできない。なるほど。
貧しさに負けた~いや、世間に負けた~ 昭和枯れすすきの歌詞である。社会に負けたのではなく世間に負けたところに口惜しさ哀しさやるせなさがある。
日本マクドナルドのサラ社長が、日本人ウケするヘアスタイルとスーツ姿で立って頭を下げるという、日本風の謝罪をしている写真を雑誌で見たが、彼女は日本の世間というものをようやく理解したのだろう。
謝罪の相手は一応お客様であるが、具体的に誰というのではなく、損害を被った被害者というのでもなく、ガイジンの彼女にはぼんやりとしか理解できない「世間」に対しての謝罪である。ガイジンだから理解できないなどと書いてしまったが、実際のところニホンジンだって理解はできていないのだ。
とらえどころのない共同幻想なのだから。理解などはなっから無理である。
かつてマクドナルドでアルバイトをしていたとき、地方の田舎のお店に社長就任前のサラさんがやってきたことがある。誰も次期社長だなんて思わないから、ガイジンのオンナの人が来たぐらいにしか思わなかった。女性の活躍という期待のもと、社長に抜擢されたのだと思うが、実力を発揮することもなく、世間に負けてしまった。
不祥事に対するマクドナルドの対応のまずさが指摘されているが、サラ社長が日本の「世間」というものをわかっていなかったことが大きいと思う。
競争に負けた~、社会に負けた~、いや、世間に負けた~
だーっと飛ばして、「法の世界へのバイパスルート~社会科学からみる法制度」へいくと、社会と世間についての面白い記述があった。
日本では「社会」の観念は人々の思考の中にしっかりと定着していない。明治時代にSocietyの訳語として「社会」という言葉が用いられるようになった。それまでの日本にあったのは「世間」である。
舶来の「社会」と日本の「世間」のもっとも著しい相違点は、「社会」は自己から切り離されて対象化されたものであるのに対して「世間」は個人から明確に分離しておらず、対象化しえないものだということだ。
「世間」は個人が立ち向かうことができる対象とは考えられていない。そもそも「世間」は境界線からして不明瞭で、とらえどころがない共同幻想である。個人は社会を変えることはできるが世間を変えることはできない。なるほど。
貧しさに負けた~いや、世間に負けた~ 昭和枯れすすきの歌詞である。社会に負けたのではなく世間に負けたところに口惜しさ哀しさやるせなさがある。
日本マクドナルドのサラ社長が、日本人ウケするヘアスタイルとスーツ姿で立って頭を下げるという、日本風の謝罪をしている写真を雑誌で見たが、彼女は日本の世間というものをようやく理解したのだろう。
謝罪の相手は一応お客様であるが、具体的に誰というのではなく、損害を被った被害者というのでもなく、ガイジンの彼女にはぼんやりとしか理解できない「世間」に対しての謝罪である。ガイジンだから理解できないなどと書いてしまったが、実際のところニホンジンだって理解はできていないのだ。
とらえどころのない共同幻想なのだから。理解などはなっから無理である。
かつてマクドナルドでアルバイトをしていたとき、地方の田舎のお店に社長就任前のサラさんがやってきたことがある。誰も次期社長だなんて思わないから、ガイジンのオンナの人が来たぐらいにしか思わなかった。女性の活躍という期待のもと、社長に抜擢されたのだと思うが、実力を発揮することもなく、世間に負けてしまった。
不祥事に対するマクドナルドの対応のまずさが指摘されているが、サラ社長が日本の「世間」というものをわかっていなかったことが大きいと思う。
競争に負けた~、社会に負けた~、いや、世間に負けた~
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