小児科医の熊谷晋一朗(くまがや・しんいちろう)さんが子どもの「自立」について、障がい者の視点からおもしろい考察をされています。熊谷さんは仮死状態で生まれ、その後遺症で脳性まひになり、リハビリに明け暮れる子ども時代を送っています。『リハビリの夜』という本のなかで、えんえんと当事者体験を語っています。すごく面白い本なのでおすすめします。医学書院っていう、名前を聞いただけで読むのを敬遠したくなるような出版社から出ていますが面白いんです…
一般的に「自立」は依存の反対語で、人に頼らずに自分のことは自分でできることだと捉えられていますが、熊谷さんは少し違う視点で考えています。
3・11の震災のとき、建物の揺れが収まるのを待って逃げようとしたところ、エレベーターが動かなかったのです。(安全装置が作動していたのです)熊谷さんは車いすで生活する障がい者であるため、エレベーターしか逃げる手段がありません。健常者は逃げる方法がたくさんあるが、障がい者はエレベーターという依存先しかない。その時に、障がい者というのは「依存できる先が少ない状態の人」のことだとあらためて気づかされたと言います。
障がい者は依存先が少なく、あるいは1つしかないのでつながりは太いが、健常者は依存先が多いのでつながりはそれぞれが細い。依存先が増えれば増えるほどひとつひとつは細くなり、何にも依存していないように錯覚する。
「自立」というのは、依存先をなくすことではなくつながりの数を多くする、つまり依存先を増やすことだというのが熊谷さんの考えです。
赤ちゃんのときは親しか依存先はないので、そのつながりはとても太いです。成長とともにできることが増えていき、親以外のものにどんどん頼れるようになっていきます。依存先が増えることで、親とのつながりは細くなっていきます。
依存できるものをどんどん開拓し、増やしていくことで子どもは「自立」していくのです。
このように考えると、今の日本の社会は子どもにとって、決して自立が容易ではないということに気づきます。子どもの教育にかかるお金はほとんど親の負担です。お金だけではなく、子どもの生活すべてが親がかりです。
熊谷さんは、親も依存先が少ないため子どもから離れられないと指摘しています。他人に迷惑をかけてはいけないという発想が中心で、自分でなんとかしようとし過ぎると、依存先が減って、結果的に自立が妨げられると言います。
何にも依存しない自立というのは虚構(フィクション)であり、その虚構に踊らされて道を誤ることは防がなければならない。ということです。
NPOもやいの湯浅誠さんも同じようなことを言っていましたよね。リーマンショックで多くの派遣社員が仕事を失って生活できなくなったときに、自己責任だという人たちがたくさんいたけど、湯浅さんは「依存先が少ない人はいったん落ちると底辺まで行ってしまって、そこから上がってこれない」「今大丈夫な人は依存先が多い人で、必ずしも自己責任で落ちていないわけではない」というようなことを言っていました。湯浅さんは依存のことを「ため」(溜めるの意味)って言ってましたが。
さて、私は「自立」できているだろうか?孤立から抜け出ていないような…
ところで、熊谷さんのパートナーはアスペルガー症候群の綾屋紗月さんです。『前略、離婚を決めました』で生きづらさを語っています。熊谷さんも綾屋さんも当事者研究者です。面白いです。
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