『海を見に』 長田弘
海を見にゆく。 時々その言葉に内からふっとつかまえられて、よく海を見にいった。 どこでもいいのだ。 目のまえに、海が見えればそれでよかった。 なにもしない。 そのまま、ずっと、海を見ている。 水平線がぐらりと沈んでゆくように見える日もあれば、空が水平線を引っぱりあげているように思える日もある。 夕暮れの海にはいつでも、どこでも子供たちがいた。 遊んでいる。 喚声を上げて走り回っているのだが、声は聴こえない。 犬は波が好きだ。 海をまえにするとき、言葉は不要だと思う。 私はただ海を見にいったのだ。 海ではなかった。 好きだったのは、海を見にゆくという、じぶんのためだけの行為だ。
万葉の昔のころからずっと、海を見ること、寄せては返す白波を見つめることは、この世のさまに思いを致すことでした。 海を見にゆく。 それはわたしには、秘密の言葉のように親しい行為だった。 何をしにゆくわけでもなく、ただ海を見にゆくということにすぎなかった。 海からの帰りには、人生にはどんな形容詞もいらないという、ごく平凡な真実が、靴の中にのこる砂粒のように、胸にのこった。 一人の日々を深くするものがあるなら、それは、どれだけ少ない言葉でやってゆけるかで、どれだけ多くの言葉でではない。・・・海辺が訪れるものにいつのときも語ってきたのは、地球というものを原初からずっとささえてきて、いまもささえているもの、地球を地球たらしめいる調和というもの、そういうものを思い出させる秘密ではないでしょうか。 その古くからの秘密こそ・・「海を見にゆく」ということが、私たちの心を誘って止まないものなのだろう。 ~長田弘・なつかしい時間~