先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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「人が何といおうとも、世間が何と思おうとも職場の労働者は、自分のために決死的に働いてくれた人を忘れるものでありません。」―関東電気労働組合4組合員から獄中西村祭喜委員長への手紙(読書メモ)

2025年02月28日 08時00分00秒 | 1928年の労働運動

「人が何といおうとも、世間が何と思おうとも職場の労働者は、自分のために決死的に働いてくれた人を忘れるものでありません。」―関東電気労働組合4組合員から獄中西村祭喜委員長への手紙(読書メモ)
参照・獄中の昭和史-豊多摩刑務所―(豊多摩(中野)刑務所を社会運動的に記録する会 編)

関東電気労働組合、東電争議が敗北した約一年後の1929年11月に関東電気労働組合4組合員から獄中西村祭喜委員長宛にだされた手紙を紹介します。西村祭喜委員長は1928年3.15事件で検挙され4月には一度釈放されるもその年の東電争議で再び検挙され、その後6年間も獄に繋がれます。

西村祭喜へ
一九二九年十一月二十日(浅井孝介・荻原中・宮島邦義・大西太郎)
 連署第二信
 我々が常に敬愛して止まない同志西村委員長。兄が単なる我々左翼電気労働者の委員長であるばかりでなく、又全電気労働者の委員長であることは、我々電気労働者の確信であります。それ故にこそ我々はなお現在に至るも兄を、我が関東電気労働組合の執行委員長の現職に仰いでいるのであります。我々は誇らかに兄を我々の代表者としているのであります。

 信愛なる同志西村祭喜兄。残念ながら面会が許されませんので手紙に代えます。
 我が関東電気労働組合は、最近真に左翼労働組合としての基礎をきずくことができました。(この辺の事情は、残念ながら具体的に申し上げることはできません。お察しください)
 頻々として停止する所をしらない――恐らくは兄等もかつて見られなかった所の――障害のために、(それは恐ろしい嵐の中を、辛くも草木にかじりつきながら、執拗に進軍する散兵戦のようであります)組織は実に遅々として、進みつつあります。我々はかつて遭遇しなかった所の一大困難と戦いつつ、行進し闘争しつづけているのであります。
 然しこの困難は左翼にとって当然なものでありましょう。いかに困難であろうとも、いかなる大障害が我々の陣営を吹きさらして、一時、或いは長く我々の闘争が不可能にされるかの如く見えても、我々は絶望するものではありません。否、我々労働者階級は絶望することはできないのです。我々の生活が現在の如く苦しいものである限り、我々は絶望することはできません。それは、ただ左翼の道のみがプロレタリアを解放するものであり、我々はいかなる代償を払うとしても、左翼労働者の本陣を守り抜かなければならぬということが、我々労働者階級の確信であり、この確信は、いかなる力も、いかなる障害も、粉砕することは出来ないからであります。
 この確信の下に、職場にある少数の戦闘的電工は、悪戦苦闘しつつあります。

(略)

 我々が職場に行って常に聞かれるのは、『西村さんはどうしました。××さん、××さんはどうしました』ということであります。
 これは東従組合員からも未組織の人からも聞かれることであります。
 人が何といおうとも、世間が何と思おうとも職場の労働者は、自分のために決死的に働いてくれた人を忘れるものでありません。
 又、関電がこわいからというので(ある職業のものが、・・に東電の職場をオドカして廻っています)直接関電の組合員になっていないものでも、東従の組合員でも、ダラ幹(・・・略)をのぞいては悉く関電が労働者の立場に立つ労働組合であることを固く信じています。
(略)

 委員長足下
 どうぞ獄内で安心して、元気で、プロレタリア的英雄的勇気をもって、さまざまな困難と闘ってください。
 なおこの手紙を見たら、左の如きことに就て至急御返事下さい。
  一、健康はどうか。
  二、着物は今何を着ているか。寒くないか。シャツ、ズボン、足袋(文数)等の注文はないか。
  三、書物は何が必要か。
   イ、何を読んでいるか。ロ、何が読みたいか。
  四、手紙、等はあるか。
     何か伝言はないか。
  五、所持金の現在高はどうか。
 昭和四年十一月十三日
西村大兄

以上


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