『近藤広蔵君』 亡き同志を憶う 渡辺政之輔(読書メモー「亀戸事件の記録」)
参照「亀戸事件の記録」(亀戸事件建碑実行委員会発行)
亡き同志を憶う 渡辺政之輔
近藤広蔵君
大正十一年の暮れ、僕が川合義虎君と共に小松川の或る小さな鉄工場で働いていた時だ。近藤君もやはり其処に働いていた。或日近藤君はホンの一寸した事だったが、工場主に対して口返答をしたと云ふカドで解雇を宣告された。僕等二十人ばかりの連中は工場主の其の暴虐に猛然と反抗したので、ヤット近藤君の解雇を取消させた。其の時近藤君は深く或るものを決心したようであった。その少し前までの近藤君の考えは「今でこそ職工して居れ、今にキット天下を恐れず大実業家になってみせる」と云ふようなよく「実業の日本」あたりの成功談にある様な空漠たる前途の希望を夢みていたのであった。
ところが一度職工になってみると成功どころの騒ぎでない。ヤット汗水流して働いても其日の生活を通して行ければ結構な位だ。その上工場主と云ふ奴は、自分の意に犬の如く柔順に従はない者を不良職工だなどと云ふ名の下に情け容赦なく解雇する。そう云ふ事実を眼の前に見たり、自分が体験したので、君の空漠たる理想の夢は破れ、現実を強く見つめる様になって来た。「資本主義そのもの序幕は労働者を生産機関から分離する事だ。資本主義が発達すればする程、無産者と有産者の分離の関係は深くそして拡大されて行く、だから一度労働に落ちた者はそれより浮ぶ事が出来ないものだ」と川合君は現実の事実を理論的によく皆に解る様に熱心に話していた。
それからの近藤君は熱心な労働運動者となり、コンミュニズムの研究に没頭した。
君は男優りの女丈夫を母として、義侠勇敢な男達を出していると云ふ事が土地の誇りである上洲前橋に二十才の果敢ない生涯の生声(うぶごえ)を挙げた。高等小学校を終へてから土地の肥料問屋の店員となったが燃える成功熱で十九才の時上京した。そして小松川の鉄工所に労働者となって働いていたのだ。運動の経歴は短かかった。従ってこれと云って書く程のこともなかったが、南葛の運動では亀戸第二支部を統制し、年少気鋭な支部長として実に立派な活動振りであった。失業大会、過法反対(過激社会運動取締法案反対)、メーデー等の大示威運動に参加したり、其他大小の争議演説会に出掛けては検束された。野田大争議の時であった。我々は応援に行くことになったので僕が近藤君を迎えに行った。君は耐へられない程の腹痛で床に横たはつていたが、敢然一緒に行くから連れていけと跳起きて来た。病気だから無理をしては駄目だと云ったが、君はどうしても承知しなかつ た。ストライキを応援に行って倒れるのなら男子の本懐だ、と云って油汗を流し腹痛を耐へ、とうとう野田まで十三里の道を雨にうたれながら歩いて行った。
殺される前日であった。朝鮮人を虐殺している現状を見るに見かねて、自警団に注意した為に今少しで彼等に殺されそうになったと云う話しがある。そう云う場合近藤君の気質として、どんな迫害があらうと、例へその場合殺されようと、黙ってその暴虐を見て居られないのであった。そう云う美しい精神をもつて居た人こそ、真の労働運動者であるのだ。そうだ、近藤君こそ本当の労働運動者であった。革命児近藤君は到底畳の上で死ぬ様な人でなかったのだ、コンミニスト近藤君の死所はヤハリ街頭であった。
(『潮流』第五号(大正十三年九月)所載、「社会運動犠牲者列伝 (五)」)