先輩たちのたたかい

東部労組大久保製壜支部出身
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亀戸事件について はじめに (読書メモ)

2022年03月25日 08時00分00秒 | 1923年関東大震災・朝鮮人虐殺・亀戸事件など

亀戸事件記事解禁の東京朝日新聞1923年10月12日

亀戸事件について  はじめに (読書メモ)
参照
「亀戸事件の記録」亀戸事件建碑実行委員会編
「亀戸事件 隠された権力犯罪」加藤文三大月書店
「日本現代史 4」ねず・まさし著  三一書房
「日本労働年鑑」第5集1924年版 大原社研編
 
はじめに
 1917年ロシア革命、1918年シベリア出兵、この年、富山の漁村から拡がった米暴動(騒動)は革命的民衆闘争として2カ月にわたり全国の数百万人が決起し労働者も各地でストライキで呼応します。政府は戒厳令をひき、警官・軍隊で弾圧を加え、検挙者は8千名を数えました。ロシア革命から日本でも労働争議と小作争議が一挙に爆発します。1919年には日本の侵略・植民地併合に抗する3.1独立闘争が朝鮮民衆により果敢に闘われ、日本政府・朝鮮総督府は警官・軍隊で朝鮮民衆を残酷に弾圧、鎮圧しました。政府は労働・農民運動や社会主義運動への弾圧を強め、1923年には「過激社会運動取締法案」「労働組合法案」「小作争議調停法案」の三悪法を成立させようと策動し、新聞などを使い、世論の中に「不逞(鮮)人」「主義者」の名称を拡大させました。また、社会主義者と労働組合との分断をはかり、5月1日のメーデー会場やデモに「主義者」と朝鮮人の参加を認めず、会場入り口でもデモ中でも「主義者」などを見つけるとただちに検束しました。しかし、支配者のたくらみを見抜いた民衆の側の三悪法反対運動の盛り上がりによって三法案の成立は阻止され、メーデーにおいても参加した多くの労働者からは日朝労働者連帯、朝鮮民族解放の声もあがりました。メーデーの直後の6月、支配階級は第一次共産党弾圧・大量検挙で、世論の「主義者」へ恐怖心を煽り、労働争議やストライキへの弾圧も強めます。
 
 1923年の大震災のわずか2カ月前7月13日の閣議「赤池警視総監から共産主義者の状勢を報告した結果閣議はこれを絶滅するため将来具体的方法をとることに決定した」(日本労働年鑑第5集1924年版620ページ)。「7月16日朝鮮警務当局ではこの内地の傾向に従い朝鮮内主義者に対し、厳重な取締りをなすこととなった」(同上)。
 支配階級のこういう姿勢の時、9月1日関東大震災が起きます。支配階級にとって、この災害と社会的混乱は、まさに奇貨おくべしでした。
 
 しかも、関東大震災時の内務大臣水野錬太郎と警視総監赤池濃は、朝鮮の植民地支配・弾圧で活躍したコンビでした。 水野は3.1独立闘争直後の1919年8月12日朝鮮総督府政務総監となり、1922年6月、加藤内閣の内務大臣に就任するまで、その地位にあります。赤池は、水野と同年の8月20日、 総督府内務部長となり、9月20日に新設された同総督府警務局長となります。水野錬太郎が朝鮮総督府斎藤総督とともに着任した9月2日、京城南大門駅で馬車に投じられた爆弾が炸裂し、二人とも負傷はまぬかれたものの29人の重軽傷者をだし、犯人は逮捕され死刑となります。水野は、日本の食糧問題解決のため、産米増殖計画を推進し、 朝鮮農民から土地を収奪し、土地を奪われた朝鮮農民は、満州や日本に渡たるしか生きる道はありませんでした。日本に渡航した朝鮮人の多くは、大都市周辺の土木工事の飯場などで、奴隷的、囚人的な苛酷な労働に従事させられています。かの《朴烈》も調査に参加した信濃水力電気株式会社による信濃川朝鮮人虐殺事件も1922年のことです。
   
 大震災勃発。ただちに戒厳令をひいた支配階級は《朝鮮人や社会主義者が暴動を起こした》という下のような完全なデマを全国の警察署と自警団の組織化と各地の新聞を通じて拡げました。

埼玉県内務部長九月二日発  郡町村長宛通牒
 不逞鮮人暴動ニ関スル件
 今回ノ震災ニ対シ東京ニ於テ不逞鮮人ノ盲動有之、又其間過激思想ヲ有スル徒ラニ和シ、以テ彼等ノ目的ヲ達セントス ル趣及聞、漸次其ノ毒手ヲ振ルハントスルヤノ恨(オソレ)有之候ニ付テハ、此ノ際町村当局者ハ、在郷軍人分会消防隊青年団等ト一致協力シテ、其ノ警戒ニ任ジ、一朝有事ノ場合ニハ速ヤカニ適当ノ方策ヲ講ズル様至急相当御手配相成度、右其筋ノ来牒ニヨリ、 及移牒候也。
(「日本現代史4」ねず・まさし著 三一書房)

九月三日内務省警保局長から各地方長官宛ての電文
「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」
(『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編)

九月三日第一師団司令官石光真臣の「訓令」

「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」
(『歴史の真実/関東大震災と朝鮮虐殺』(現代史出版会)の資料編)

警視庁官房主事正力松太郎(のち読売新聞社主)
「九月五日、警視庁は正力官房主事と馬場警務部長名で、『社会主義者の所在を確実につかみ、その動きを監視せよ』という通牒を出した。さらに十一日には、正力官房主事名で、『社会主義者に対する監視を厳にし、公安を害する恐れあると判断した者に対しては、容赦なく検束せよ』という命令が発せられた」
(正力松太郎と影武者たちの一世紀『巨怪伝』  (文春文庫) 

「東京の鮮人は三五名づつ昨二日、手を配り市内随所に放火したる模様にて、その筋に捕らわれし者約百名」「程ヶ谷方面において鮮人約二百名徒党を組み、一日来の震災を機として暴動を起こし、同地青年団在郷軍人は防御に当たり、鮮人側に十余名の死傷者」
(9月3日付けの『報知』新聞の号外の要点)

 こうして地震と火災と飢えに脅えている日本民衆を、朝鮮人や社会主義者への恐怖心と憎悪へとかきたて、多数の朝鮮人・中国人虐殺、先進的労働組合員殺害の亀戸事件、アナーキズム指導者の大杉栄家族殺害事件、そして朝鮮人虐殺事件を正当化し、合理化するため、世界を騙すために朴烈・金子文子事件を起こしたのです。労働組合の日本労働総同盟を分裂へと導き右傾化させ、そして悪名高い治安維持法が、普通選挙と抱き合わせで「過激社会運動取締法案」の生まれ変わりとして公布されたのはその2年後の1925年3月です。全部つながっているのです。



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