自我を薄めて人と会話をするということは、相手を受容する状態です。たぶんそこには如来神通力が働いていると思いたい
だがそれを意識しては語れない
意識することなく
普通の世間話の中に
自分さえそれと気づかぬよう
自分の口を借りて
如来が語っているようだった
足が不自由な人に
何気に自分に言い聞かせるように
「お互いのんびり、生きましょ」
といったあと
家事援助でチキンの照り焼きをつくって、味見をしたら薄かったので
「薄かったら醤油をかけてね。私は味が薄かったけど、普通の人は丁度の味付けだと思います」といったあと
「地震きたときは倒れそうなテレビなどの側から離れてね」と言って、仕事を終えた3時間後、震度3の地震が起きた
統合失調症の人の家事援助に入って部屋の仏壇を見たら、納骨されていない骨壺、二人の男性の遺影、数年はほったらかしの枯れ枯れ仏花が飾ってあった
「枯れた花は捨てますよ。また新しい花か、枯れない造花を買って来てください。ときどき仏壇に手をあわせられるの?」
と、、、話のきっかけができました
いつもは何にも私にはしゃべらない人でしたが、うちとけたかな
人はみな自分は特別だと思ってる
人はみな自分は今日明日は死なないと思っている
人はみなこの人生を意味があると思いたい
特別で意味有る人生を生きる自分は死なない、、いえ、いつかは死ぬが、今日明日は絶対死なない
と本当は思っている
それ辛くないですか?
何も無い方が楽
自分さえ確かな根本は無い
だから何にも問題なんて無い
人生は意味無い暇潰し
暇だからこそ問題意識をもったり
些細なことにこだわったりして
暇を潰す
同じ暇を潰すんなら「意味有る特別ごっこを演出し暇潰す」。暇潰しの中なら苦は苦でなく刺激