井上靖『後白河院』 松山愼介
後白河院の時代については興味があったので、大河ドラマ「平清盛」(二〇一二年)は見ていた。平清盛に松山ケンイチ、後白河院に松田翔太、時子に深田恭子、平忠盛に中井貴一、信西入道に阿部サダヲという配役だった。視聴率は悪かったそうだが、源氏の話はよく知る機会はあったが、平氏、後白河院について知識がなかったので、面白く見た。
井上靖『後白河院』は、第一部は平信範、第二部は藤原俊成女、第三部は吉田経房、第四部は九条兼実が語り手である。平信範は『兵範記』、吉田経房は『吉記』、九条兼実は『玉葉』という記録を残している。第一部は九条兼実に平信範が保元の乱を中心にして史実を語るという設定である。仁安元年(一一六六)頃のことである。兼実の父・関白法性寺(藤原忠通)と、忠実、頼長との対立も。二十九歳で即位した後白河天皇については「平生は到底天子の器にはお見受けできないが、然るべき場所のお据え申し上げさえすれば、さすがに自から御血筋が物を言い、何をお考えになっているか判らないおっとりしたご風貌も却って威厳となって、なかなかどうして立派なものである」と言う。ただ「今様をお謡いになっているうちに、いつの間にか天皇の御座席にお運ばれになってしまった」と、危惧する公卿もいた。雅仁親王(後白河天皇)は、全く天皇になる可能性がない位置にあったため、今様、田楽、猿楽の名手を集めたり、白拍子を宮中に招いて物議をかもしたこともあったという。後白河は鳥羽法皇の御殿で今様に興じていた。後に藤原俊成に『千載和歌集』の編纂を命じるが、自身でも今様を『梁塵秘抄』にまとめ、この時代の重要な資料になっている。
そもそも院政というのは、天皇の皇統を維持するためにできたらしい。平安時代末期ならば、人間の寿命も限られ、病で死ぬことも多々ある。天皇といえども同様である。天皇が死ぬたびに、次の天皇の擁立における混乱をさけるために、院政がおこなわれ、院が次の天皇を決定する力を持つようになったという。崇徳上皇は白河院の胤とされ、鳥羽法皇のもと、院政を行うことができなかった。それが鳥羽法皇の死をきっかけにして、崇徳上皇が権力奪取に動いたが、源義朝、平清盛らの軍勢に鎮圧され、讃岐に流されることになる。後年この崇徳院の墓を西行法師が訪れている。この保元の乱について平信範は「長い間陰気にくすぶっていた皇室や公卿の対立が、合戦というもので、あっという間に片付いてしまった」と印象を述べている。この乱が公家政治から武家政治の転換となったとみられる。後白河天皇は三年で二条天皇に譲位し、上皇として院政を開始する。大河ドラマでは信西入道は自らの学識をもとに理想の国家を平清盛と建設しようとするが、反対派によって、平清盛が熊野詣に出かけた隙に討ち取られてしまうことになっていた。
第二部は建春門院に仕えていた、藤原俊成女によって後宮の様子、女たちの目から見た争い事が語られる。
第三部では宣旨院宣の草案を書いたという吉田経房によって、平氏打倒の鹿ヶ谷事件から義仲の上洛を中心にして語られる。後白河院も関係していたという鹿ヶ谷事件が察知され、逆に平清盛の権力が強化されることになった。その清盛も治承五年(一一八一)に亡くなり、養和と改元されたが、この年は飢饉であったうえに、平氏が西海北陸二道から兵糧米を課したため、都に餓死者あふれ、仁和寺の法師が、死者の首に阿字を書いて供養して歩き、その数が四万二千三百になったというのは『方丈記』でも有名な話である。
第四部では兼実に「後白河院だけは六十六年の生涯、ただ一度もお変わりにならなかった」と言わせている。
井上靖は資料を十分に読み込んで、四人の目からこの作品を書いたが、天皇一族は勿論のこと、藤原氏一族の人間関係もわかりづらく読むのに苦労した。面白い方法だが、作家の目から統一した後白河院の像を書いたほうが解りやすかったと思う。井上靖を持ってしても後白河院の像が複雑で、統一した像をえがけなかったのかも知れない。あるいは天皇制のタブーが井上靖の念頭にあったのかも知れない。歴史上の四人の眼をとおして書けば、後白河院について書いたことは歴史上の四人の人物に成り代わって書いたのだと抗弁できるからである。考えてみると、天皇、上皇、法皇は武士の手によっては、幽閉は出来ても殺すことはできなかった。このため後白河院も自らの命は安全な立場で院政を行ったのではないだろうか。ともあれこの激動期を三十四年にわたって、政権の中心に君臨したことは見事な生涯であったと言わざるをえない。
参考文献として元木泰雄『平清盛と後白河院』(角川選書)を読んだ。これによれば『平家物語』は話を面白くするために、全編にわたって、無能な源範頼、優秀な義経というような対抗関係で書いているという。後白河院から位を受けたため義経が頼朝の怒りをかったというのも間違いで、頼朝の了解のもとに位を受けているという。鵯越の逆落としも、義経ではなく多田行綱の功績であったという。また三種の神器を返還せず入水した安徳帝と母・時子は、源氏に対する見事な戦闘を行ったとしている。
2015年6月13日
後白河院の時代については興味があったので、大河ドラマ「平清盛」(二〇一二年)は見ていた。平清盛に松山ケンイチ、後白河院に松田翔太、時子に深田恭子、平忠盛に中井貴一、信西入道に阿部サダヲという配役だった。視聴率は悪かったそうだが、源氏の話はよく知る機会はあったが、平氏、後白河院について知識がなかったので、面白く見た。
井上靖『後白河院』は、第一部は平信範、第二部は藤原俊成女、第三部は吉田経房、第四部は九条兼実が語り手である。平信範は『兵範記』、吉田経房は『吉記』、九条兼実は『玉葉』という記録を残している。第一部は九条兼実に平信範が保元の乱を中心にして史実を語るという設定である。仁安元年(一一六六)頃のことである。兼実の父・関白法性寺(藤原忠通)と、忠実、頼長との対立も。二十九歳で即位した後白河天皇については「平生は到底天子の器にはお見受けできないが、然るべき場所のお据え申し上げさえすれば、さすがに自から御血筋が物を言い、何をお考えになっているか判らないおっとりしたご風貌も却って威厳となって、なかなかどうして立派なものである」と言う。ただ「今様をお謡いになっているうちに、いつの間にか天皇の御座席にお運ばれになってしまった」と、危惧する公卿もいた。雅仁親王(後白河天皇)は、全く天皇になる可能性がない位置にあったため、今様、田楽、猿楽の名手を集めたり、白拍子を宮中に招いて物議をかもしたこともあったという。後白河は鳥羽法皇の御殿で今様に興じていた。後に藤原俊成に『千載和歌集』の編纂を命じるが、自身でも今様を『梁塵秘抄』にまとめ、この時代の重要な資料になっている。
そもそも院政というのは、天皇の皇統を維持するためにできたらしい。平安時代末期ならば、人間の寿命も限られ、病で死ぬことも多々ある。天皇といえども同様である。天皇が死ぬたびに、次の天皇の擁立における混乱をさけるために、院政がおこなわれ、院が次の天皇を決定する力を持つようになったという。崇徳上皇は白河院の胤とされ、鳥羽法皇のもと、院政を行うことができなかった。それが鳥羽法皇の死をきっかけにして、崇徳上皇が権力奪取に動いたが、源義朝、平清盛らの軍勢に鎮圧され、讃岐に流されることになる。後年この崇徳院の墓を西行法師が訪れている。この保元の乱について平信範は「長い間陰気にくすぶっていた皇室や公卿の対立が、合戦というもので、あっという間に片付いてしまった」と印象を述べている。この乱が公家政治から武家政治の転換となったとみられる。後白河天皇は三年で二条天皇に譲位し、上皇として院政を開始する。大河ドラマでは信西入道は自らの学識をもとに理想の国家を平清盛と建設しようとするが、反対派によって、平清盛が熊野詣に出かけた隙に討ち取られてしまうことになっていた。
第二部は建春門院に仕えていた、藤原俊成女によって後宮の様子、女たちの目から見た争い事が語られる。
第三部では宣旨院宣の草案を書いたという吉田経房によって、平氏打倒の鹿ヶ谷事件から義仲の上洛を中心にして語られる。後白河院も関係していたという鹿ヶ谷事件が察知され、逆に平清盛の権力が強化されることになった。その清盛も治承五年(一一八一)に亡くなり、養和と改元されたが、この年は飢饉であったうえに、平氏が西海北陸二道から兵糧米を課したため、都に餓死者あふれ、仁和寺の法師が、死者の首に阿字を書いて供養して歩き、その数が四万二千三百になったというのは『方丈記』でも有名な話である。
第四部では兼実に「後白河院だけは六十六年の生涯、ただ一度もお変わりにならなかった」と言わせている。
井上靖は資料を十分に読み込んで、四人の目からこの作品を書いたが、天皇一族は勿論のこと、藤原氏一族の人間関係もわかりづらく読むのに苦労した。面白い方法だが、作家の目から統一した後白河院の像を書いたほうが解りやすかったと思う。井上靖を持ってしても後白河院の像が複雑で、統一した像をえがけなかったのかも知れない。あるいは天皇制のタブーが井上靖の念頭にあったのかも知れない。歴史上の四人の眼をとおして書けば、後白河院について書いたことは歴史上の四人の人物に成り代わって書いたのだと抗弁できるからである。考えてみると、天皇、上皇、法皇は武士の手によっては、幽閉は出来ても殺すことはできなかった。このため後白河院も自らの命は安全な立場で院政を行ったのではないだろうか。ともあれこの激動期を三十四年にわたって、政権の中心に君臨したことは見事な生涯であったと言わざるをえない。
参考文献として元木泰雄『平清盛と後白河院』(角川選書)を読んだ。これによれば『平家物語』は話を面白くするために、全編にわたって、無能な源範頼、優秀な義経というような対抗関係で書いているという。後白河院から位を受けたため義経が頼朝の怒りをかったというのも間違いで、頼朝の了解のもとに位を受けているという。鵯越の逆落としも、義経ではなく多田行綱の功績であったという。また三種の神器を返還せず入水した安徳帝と母・時子は、源氏に対する見事な戦闘を行ったとしている。
2015年6月13日
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