松本清張『象徴の設計』 松山愼介
初期の明治政府は徳川幕府を倒したものの、新しい国家をどのように建設していくかとう点に関しては明確なプランを持っていなかったようである。それは薩長藩閥政府の汚職という形で現われた。山県有朋が関わった山城屋事件である。山県有朋が陸軍省の公金を、同郷で親交があった陸軍御用達の商人である山城屋和助に勝手に無担保で貸し付け、その見返りに金銭的な享受を受けていたとされる事件であるが、 事件発覚後、和助は証拠書類を焼却して自害したため、詳しいことはわかっていない。和助は生糸相場に失敗したらしい。山県も陸軍大輔を辞任した。 山城屋の借り出した公金は総額約六十五万円、当時の国家歳入の一パーセントという途方もない額であった。この時、西郷隆盛が山形をかばったらしい。
西南戦争後でも、北海道官有物払い下げ事件がある。明治十四年に薩摩の五代友厚に、北海道の官有物三千万円相当を十分の一の三十万円で、しかも三十年賦償還というタダ同然の条件で払い下げようとしたものであった。この時の開拓使長官が薩摩の黒田清隆であったが、これに大蔵卿の佐野常民が反対し、彼の背後に大隈重信がいた。大隈は国会解説の急進派だったためもあって、大隈が参議を罷免され、官有物払い下げも中止となった。この五代友厚も明治十八年に亡くなった時、仲間の面倒を見すぎて債務がたくさん残っていたという。大阪でおこなわれた葬儀には四千人以上が出席した。
山県有朋は、長州での奇兵隊の経験から、軍は平民(農民)の徴兵制によって建設されるべきだと考え、薩摩、特に西南戦争の中心人物、桐野利秋は戊辰戦争の経験から、軍は士族で構成されるべきで、農民に戦はできないと考えていた。明治政府の最初の軍隊は各藩から、差し出された士族で構成された。西南戦争では、結局、平民の軍隊が勝利した。田原坂の戦いで、山県は援軍を待って攻撃しようとしたが、その間に西郷軍は防御陣地を固めたため政府軍は苦戦した。そのため警視隊からなる抜刀隊を投入せざるを得なかった。この抜刀隊は会津士族が先頭に立ったと思っていたが、実際は、西郷軍の城下士に対して、外城士といわれる薩摩士族で構成されていた。この抜刀隊に山県有朋は反対であったが、戦況からやむなく認めた。
西南戦争では山県が政府軍の事実上総指揮を取った。政府軍は西郷の周辺の不穏な動きを感知すると、先手をうって熊本鎮台を強化し、船による兵力、補給を行った。西郷軍が決起してからは、電信を有効に使い、すばやく情報を収集した。また鹿児島を占領し、西郷軍の補給を断った。城山にこもった西郷に、最後通牒を書いたのも山県である。この西南戦争の経験から、山県は強固な信念に基づく日本軍の必要を考えるようになっていく。
竹橋事件では、給料の減額と恩賞が実施されないことに不満を持った近衛砲兵が反乱を起こした。近衛兵は士族から構成されていた。この反乱を抑えた山県は、士族の乱よりも、貧民化した農民が自由民権運動と結びついて反乱を起こすことを恐れた。山県の考えは「「帝国の独立」は軍隊が支柱である。軍隊が強くなくては国家の独立は出来ない」というものであった。しかし、この作品を読んでいると、自由民権運動や、自由党の過激派の取締は徹底して密偵の活用だった。
山県が「軍人訓誡」と「軍人勅諭」を作成し、軍の忠誠の中心に天皇を据えようとした。しかし、「象徴」、「現人神」の設計の役割は岩倉具視とされ、天皇の巡幸も岩倉の戦略とされている。戦後の昭和天皇の行幸は、この明治天皇の巡幸を踏まえたのだろうか。
山県、伊藤、西郷らは「天皇を自分たちの力でここまで押し上げたと思っている」。「幼冲の天皇を押し上げた先輩はもとより、それを引き継いだ彼自身(山県)をはじめ、すべての人間が天皇を持つことによって今日に及んでいる。/在来の「忠義思想」は別として、誰もが天皇に感謝しなければならないのだ。頼りなかったこの天皇に象徴されるように、政府自体が薄氷を踏んで成長したようなものだった」と山県は述懐している。つまり「象徴の設計」の基礎を山県がつくり、岩倉が完成させたということになるのだろうか。
山県が「軍人勅諭」を完成させ、軍人の忠誠の対象に神格化した天皇を持ってきたのは理解できるが、広く国民に天皇の神格化を徹底したのは明治憲法と教育勅語ではないだろうか。明治憲法は伊藤博文、井上毅が中心となって作り上げた。また「象徴」という概念は現行憲法のものであって、明治憲法にはない。それ故に、この「象徴の設計」というタイトルには疑問が残った。
2019年3月9日
ダイナマイトのように点火しなくても、投擲するだけで爆発する「爆裂弾」を使った、加波山事件や秩父事件の経過を読んでいると、どうしてもピース缶爆弾や連合赤軍の戦いと二重写しになってしまった。また、山県が反政府勢力を徹底的に弾圧し、軍を強化していく過程は、ロシア革命におけるトロツキーと似ている。トロツキーも軍事人民委員として、社会革命党左派やアナキストを弾圧し、装甲列車に乗り、マフノの指揮する農民軍や白軍と戦い、赤軍を確立したのだった。
2019年3月9日
初期の明治政府は徳川幕府を倒したものの、新しい国家をどのように建設していくかとう点に関しては明確なプランを持っていなかったようである。それは薩長藩閥政府の汚職という形で現われた。山県有朋が関わった山城屋事件である。山県有朋が陸軍省の公金を、同郷で親交があった陸軍御用達の商人である山城屋和助に勝手に無担保で貸し付け、その見返りに金銭的な享受を受けていたとされる事件であるが、 事件発覚後、和助は証拠書類を焼却して自害したため、詳しいことはわかっていない。和助は生糸相場に失敗したらしい。山県も陸軍大輔を辞任した。 山城屋の借り出した公金は総額約六十五万円、当時の国家歳入の一パーセントという途方もない額であった。この時、西郷隆盛が山形をかばったらしい。
西南戦争後でも、北海道官有物払い下げ事件がある。明治十四年に薩摩の五代友厚に、北海道の官有物三千万円相当を十分の一の三十万円で、しかも三十年賦償還というタダ同然の条件で払い下げようとしたものであった。この時の開拓使長官が薩摩の黒田清隆であったが、これに大蔵卿の佐野常民が反対し、彼の背後に大隈重信がいた。大隈は国会解説の急進派だったためもあって、大隈が参議を罷免され、官有物払い下げも中止となった。この五代友厚も明治十八年に亡くなった時、仲間の面倒を見すぎて債務がたくさん残っていたという。大阪でおこなわれた葬儀には四千人以上が出席した。
山県有朋は、長州での奇兵隊の経験から、軍は平民(農民)の徴兵制によって建設されるべきだと考え、薩摩、特に西南戦争の中心人物、桐野利秋は戊辰戦争の経験から、軍は士族で構成されるべきで、農民に戦はできないと考えていた。明治政府の最初の軍隊は各藩から、差し出された士族で構成された。西南戦争では、結局、平民の軍隊が勝利した。田原坂の戦いで、山県は援軍を待って攻撃しようとしたが、その間に西郷軍は防御陣地を固めたため政府軍は苦戦した。そのため警視隊からなる抜刀隊を投入せざるを得なかった。この抜刀隊は会津士族が先頭に立ったと思っていたが、実際は、西郷軍の城下士に対して、外城士といわれる薩摩士族で構成されていた。この抜刀隊に山県有朋は反対であったが、戦況からやむなく認めた。
西南戦争では山県が政府軍の事実上総指揮を取った。政府軍は西郷の周辺の不穏な動きを感知すると、先手をうって熊本鎮台を強化し、船による兵力、補給を行った。西郷軍が決起してからは、電信を有効に使い、すばやく情報を収集した。また鹿児島を占領し、西郷軍の補給を断った。城山にこもった西郷に、最後通牒を書いたのも山県である。この西南戦争の経験から、山県は強固な信念に基づく日本軍の必要を考えるようになっていく。
竹橋事件では、給料の減額と恩賞が実施されないことに不満を持った近衛砲兵が反乱を起こした。近衛兵は士族から構成されていた。この反乱を抑えた山県は、士族の乱よりも、貧民化した農民が自由民権運動と結びついて反乱を起こすことを恐れた。山県の考えは「「帝国の独立」は軍隊が支柱である。軍隊が強くなくては国家の独立は出来ない」というものであった。しかし、この作品を読んでいると、自由民権運動や、自由党の過激派の取締は徹底して密偵の活用だった。
山県が「軍人訓誡」と「軍人勅諭」を作成し、軍の忠誠の中心に天皇を据えようとした。しかし、「象徴」、「現人神」の設計の役割は岩倉具視とされ、天皇の巡幸も岩倉の戦略とされている。戦後の昭和天皇の行幸は、この明治天皇の巡幸を踏まえたのだろうか。
山県、伊藤、西郷らは「天皇を自分たちの力でここまで押し上げたと思っている」。「幼冲の天皇を押し上げた先輩はもとより、それを引き継いだ彼自身(山県)をはじめ、すべての人間が天皇を持つことによって今日に及んでいる。/在来の「忠義思想」は別として、誰もが天皇に感謝しなければならないのだ。頼りなかったこの天皇に象徴されるように、政府自体が薄氷を踏んで成長したようなものだった」と山県は述懐している。つまり「象徴の設計」の基礎を山県がつくり、岩倉が完成させたということになるのだろうか。
山県が「軍人勅諭」を完成させ、軍人の忠誠の対象に神格化した天皇を持ってきたのは理解できるが、広く国民に天皇の神格化を徹底したのは明治憲法と教育勅語ではないだろうか。明治憲法は伊藤博文、井上毅が中心となって作り上げた。また「象徴」という概念は現行憲法のものであって、明治憲法にはない。それ故に、この「象徴の設計」というタイトルには疑問が残った。
2019年3月9日
ダイナマイトのように点火しなくても、投擲するだけで爆発する「爆裂弾」を使った、加波山事件や秩父事件の経過を読んでいると、どうしてもピース缶爆弾や連合赤軍の戦いと二重写しになってしまった。また、山県が反政府勢力を徹底的に弾圧し、軍を強化していく過程は、ロシア革命におけるトロツキーと似ている。トロツキーも軍事人民委員として、社会革命党左派やアナキストを弾圧し、装甲列車に乗り、マフノの指揮する農民軍や白軍と戦い、赤軍を確立したのだった。
2019年3月9日
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