(承前)
- 満洲での自分たちの権利をしっかり守り、うまく利用するために、明治43年(1910年)に間にある朝鮮を併合してしまうと言う強硬手段に出たのです
(コメント)
あまりに乱暴な書き方である - 張作霖爆破事件による昭和4年の田中義一内閣崩壊により「沈黙の天皇」を作り、翌年ロンドン海軍軍縮条約に関し「統帥権干犯」問題により海軍の良識派(条約派)が駆逐され強硬派が主流になり、昭和の日本は対米強硬路線に動いていった
(コメント)
半藤氏は本書の中で昭和天皇の決断について批判的に記述しているが如何なものか、昭和天皇は内閣の決定事項について拒否権発動が常態化すれば専制君主国になってしまうことを恐れた、半藤氏はそれではダメだと言いたいのか、天皇機関説問題のところでこのような天皇のお考えも明治憲法の解釈としてありうると書いている、それを軍部が批判し天皇の権限は絶対的なものだと解釈した、半藤氏の「沈黙の天皇」批判は軍部の憲法解釈が正しいと言っていることと同じにならないか - 参謀本部は昭和6年6月「満蒙問題解決方策大綱」を作るが、その中で注目すべきはその終わりの方に、この大方針を実行するには内外の理解が必要であると述べていることである。その「内」とはマスコミのことをさす、この辺からマスコミが軍の政策に協力しないと、つまり、国民にうまく宣伝してもらわなければ成功しないと言うことを軍部は意識し始める。張作霖事件以降の陸軍の目論見が全部パーになったのは反対に回ったマスコミにあおられた国民が「陸軍はけしからん」と思ってしまったのが原因だと大変反省したからです。
(コメント)
今と同様、政府も軍部も世論に反したことはなかなかできない、だからこそマスコミの役割が大事になる、戦前の日本を軍国主義と言うなら、その軍国主義なるものを支持し政府や軍部、国民を煽ったマスコミはもっと非難されるべきだろう - 1931年9月18日に満州事変が発生したが、新聞はそれまで軍の満蒙問題については非常に厳しい論調だったのが、20日の朝刊からあっという間にひっくり返った。世論操縦に積極的な軍部以上に、朝日、毎日の大新聞を先頭に、マスコミは競って世論の先取りに狂奔し、かつ熱心きわまりなかった。そして満洲国独立案、関東軍の猛進撃、国連の抗議などと新生面が開かれるたびに、新聞は軍部の動きを全面的にバックアップしていき、民衆はそれに煽られてまたたく間に好戦的になっていく、「各紙とも軍部側の純然たる宣伝機関と化したといっても大過ない」という状況だった
(コメント)
半藤氏がこのようなマスコミの汚点をキチンと紙幅を費やして書いていることは高く評価できる、新聞がいかに国民や政府、軍部をミスリードしていたのか日本人はもっと知るべきである、その意味で本書は大変価値があると思う、こういう事実も歴史教科書に書き子供にも教えるべきでしょう - 事変発生後の10月2日、関東軍は「満蒙問題解決案」を決める、それは満洲を傀儡国家とする方針だ、この方針でうまく国民をリードするには例によって新聞を徹底的に利用しようと考えた、戦争は新聞を儲けさせる最大の武器、だから新聞もまた、この戦争を煽りながら部数を増やしていこうと軍の思惑通りの動きをした。事変の本格的な報道は10月から始まるが、朝日と毎日は競って大宣伝を重ね、号外も乱発した、当時の毎日新聞論説委員が自嘲的に「事変の起ったあと、社内で口の悪いのが自嘲的に“毎日新聞後援・関東軍主催・満洲戦争”などと言っていましたよ。それだけではなく、新聞社の幹部も星ヶ丘茶寮や日比谷のうなぎ屋などで陸軍機密費でご馳走になっておだをあげていたようだ。
(コメント)
呆れてものが言えない - これだけではない新聞の不都合な真実
・松岡外相が満州事変後の国連総会でリットン報告書に反対して退席し、日本に帰国したとき、新聞は松岡を礼賛し、これほどの英雄はいないと持ち上げた
・ノモンハン事件の最中に、反米・反英感情が増大する天津事件が起り、新聞が7月15日に英国けしからんという強硬な共同声明を出した、そういったこともあってイギリスは日本の主張を受入れたが、その直後の7月27日にアメリカは日米通商航海条約の廃棄を通知し、これ以降日本に対し強硬路線をあわらにするようになった
・これ以外も記載があるが省略
(続く)