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帯とけの平中物語
「平中物語」は、平中と呼ばれた平貞文の詠んだ色好みな歌を中心にして、平中の生きざまと人となりが語られてある。
歌も地の文も、聞き耳によって意味の異なるほど戯れる女の言葉で綴られてあるので、それを紐解けば、物語の帯は自ずから解ける。
平中物語(三十四)また、この男、しのびたるものから ・(その一)
また、この男(平中)、しのびたるものから(人には隠しながらも……耐え忍びながらも)、はやうま(速い馬……逸物)と思わない、女で、まと思ひ(間遠く思い……惑い思って)通い住む女がいたのだった。
言の戯れと言の心
「はやうま…早い馬…優れもの…逸物」「うま…馬…むま…おとこ」「まと思ひ…間遠く思い…通いの間隔が間遠く思い…惑い思い…疑念を抱きながら」。
この男が通い住んでいた間に、格段上の高貴な人に、女は・何か申しあげている気配が見えたのだった。それを、先に通い住んでいたこの男も出入する宮だったので、気配を感じ疑いながら、この女に恨みごとを言っていたのだった。
しかし、この新しく言い寄りになられる男は、上の女房にも下仕えの女にも、心に任せて、混じり遊び歩く人なので、我が女を・守ることはできないままに、悔しくも、その人と女は・合ったのだった。そのまま、素知らぬ顔を作ってだ、この男は語らっていた。この男、やはり、その人には・何も言えないような関係だったので、女をひたすらひどい仕打ちだと思っていたのだった。
さて、この先の男が口癖のように「あふさか」という言葉を言っていたので、
「逢坂」と、女はあだ名を・付けていたのだった。それを思って、このように言って遣った。
逢坂とわがたのみくる関の名を 人もる山といまはかふるか
(逢坂という、我が頼みくる関所の名を、人守る山と、今は名を換えたか……合う坂山ば共に・越えようと、我が願い、繰る関門が、お相手の名を、人盛る山ばと、今は換えたのか)。
言の戯れと言の心
「逢坂…越えれば合う身または京(宮こ)という山…関所がある所…合う坂の山ば」「と…と共に…一緒に」「関…関所…難所…関門」「門…女」「もるやま…守山…盛る山…お盛んな山ば」「かふ…換ふ…交換する」「か…疑い・問い・詠嘆の意を含む」。
返し、(女)、
逢坂は関といふことにたかければ君もる山と人をいさめよ
(逢坂は関ということで名高いので、君がわたしを守る山として、あの人を諫めてよ・合ってはいないわ……君は、関門ということでは、高く上手なのだから、君が先に盛りあげた山ばだと、あの人を勇めてよ・合坂に至ってないわ)。
言の戯れと言の心
「逢坂…この男のあだ名…君…合坂」「関…門…女」「いさめよ…諫めよ…忠告せよ…勇めよ…勇気付けよ…元気付けよ」。
と言って、いみじうあらがひたれば(はなはだしく言い争ったので……ひどい反論したので)、又、男、
いつはりをただすの森のゆう襷 かけて誓えよわれを思はば
(偽りを、糺の森の神に木綿襷掛けて、正しいと誓えよ、苦悩する・我を思うならば……その偽りを、ただすの森の神に、正しますと・ゆうたすきかけて誓えよ、多好きと・我を思うならば)。
言の戯れと言の心
「ただす…糺す…神のいる森の名…白黒をはっきりさせる…正す…訂正する」「たすき…襷…多好き」。
と言ったけれど、「里へ退出した」ということで、返事もしないので、男、ゆううつで、そのままものも言わないで、その頃は過ごしていたのだった。(つづく)
二人の仲に謀らずも楔を入れてしまわれた「こよなうまさりたる人」は、恐らく、平中より数歳年上の親王と思われる。ただし、ここに描かれてあるのは、平中の対応ぶり、女に対する恨みごとと、女の言い草の「をかしさ」である。
原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。
以下は、今の人々を上の空読みから解き放ち、平安時代の物語と歌が恋しいほどのものとして読むための参考に記す。
古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。
歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。
「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。
歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。
歌の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。