帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの平中物語(三十九)まことや、檜隈川は渡るとは見し

2013-12-14 00:33:26 | 古典

    



               帯とけの平中物語



 「平中物語」は、平中と呼ばれた平貞文の詠んだ色好みな歌を中心にして、平中の生きざまと人となりが語られてある。

 歌も地の文も、聞き耳によって意味の異なるほど戯れる女の言葉で綴られてあるので、それを紐解けば、物語の帯は自ずから解ける。



  平中物語(三十九)まことや、檜隈川は渡るとは見し


  まことや(真実だろうか?……ほんとうだ!)、「檜隈川は渡るとは見し」(これは)、富小路殿の右大臣殿の方(女房達)に、いひたるぞ(平中がいった言だ……平中の歌ぞ)。その右大臣殿の御母が(賀茂の)河原にお出かけになられた時に、本院の大臣(藤原時平・左大臣)も、お出かけになられていて、女車(女房の車)より、ご挨拶申し上げたけれど、返事もしないで、お帰りになられたので、女、
 かからでもありにしものをささのくま過ぐるを見てぞ消えは果てにし

(かかわらないでいたらなあ・よかったのに、笹の熊、通り過ぎるのを見てよ、消え果ててしまったわ・あの人……頼らないでいたらなあ・よかったのに、ささの隅、隠れたところ、過ぎるお、見てぞ、消え果ててしまったわ・あのおとこ)。


 言の戯れと言の心

「かからで…係わらず…寄り掛からず…頼りにせず」「で…打消しの意を表す」「ものを…のに…ので…のになあ」「ささのくま…笹の熊…小さな熊…かわいらしい隈…ささの陰」「見…目で見ること…覯…まぐあい」。

 

これを後に、平中、聞いて、女にいひたてまつる(女に申し上げた……女にいい立てまつる)。
 まことにや駒もとどめでささの舟 ひのくま川はわたり果てにし

(ほんとうかな、駒も止めずに・乗ったまま、ささの舟で、檜隈川は、渡り切ったと・あのお人……ほんとうかな、股間もとめずに、ささの夫根、あなたの緋の隈川はわたり、果てたと・彼のおとこ)。


言の戯れと言の心

「こま…駒…こ間…股間…おとこ」「とめで…止めず…停止せず…中止せず」「ささ…笹…くま笹…小…細」「ふね…舟…夫根…おとこ」「ひのくまかは…檜隈川…川の名、名は戯れる。緋の隈川、緋色の隅川」「緋…濃い朱色」「隈…隅…陰」「川…女…をんな」。

 

女、返事、
 いつはりぞささのくまぐまありしかば 檜隈川はいでて見ざりき

(君は・偽っているね、小さな熊たちがいるので、わたしは・檜隈川へは出かけて見なかったの……わざと君は・偽っているのね、かわいいわが隈は色々多々あるので、あの人・緋のくま川は、出て見果てなかったと・言ったのよ)。


 言の戯れと言の心

「ささのくまくま…ささの熊たち…ささの隈隈…ささやかな隠れたこと…秘めたことこと」「いでて…出かけて…出で果てて」「みざりき…見なかった」「見…覯…媾」。


                          (平中物語終り)

「わが大ふねならば、その川わたりきるぞ」、平中は、このように言い寄るだろう。左大臣(藤原時平)の見捨てた女を平中が得るのは、ほぼ確実である。


 

原文は、小学館 日本古典文学全集 平中物語による。 歌の漢字表記ひらがな表記は、必ずしも同じではない。



 以下は、今の人々を上の空読みから解き放ち、平安時代の物語と歌が恋しいほどのものとして読むための参考に記す。


 古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、歌が恋しくなるだろうとある。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に学ぶ。『新撰髄脳』に「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べている。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることがわかる。これが「歌の様」である。

「言の心」については、先ず、平安時代の言語観を清少納言と藤原俊成に学ぶ。清少納言は「同じ言葉であっても、聞く耳によって(意味の)異なるもの」、それが我々の言葉であると『枕草子』第三章に記している。藤原俊成は「歌の言葉は、浮言綺語の戯れに似ているが、そこに言の深い趣旨が顕れる」という。これらの言語観によれば、歌言葉などには、字義以外にもこの文脈で孕んでいた意味があることがわかる。それを一つ一つ心得ていけばいいのである。

言葉の意味には確たる根拠も理屈もない。ただその文脈で大多数の人がそうだと思い込んでいるだけである。月は男だとか水は女だとかは、そのように思われていたと仮説して、そうだと思われていた時代の歌や物語で確かめるだけである。

 

歌も物語も、今では「色好み」な部分がすべて消えて、清げな姿しか見せていない。その原因は色々あるけれども、一つは、鎌倉時代に和歌が秘伝となって埋もれたことにある。古今伝授として秘密裏に継承されたがそれも消えてしまった。秘伝など論理的に解明することなど不可能であるから見捨てて、原点の貫之・公任の歌論に帰ればいいのである。もう一つは、近世より、古典文芸について、論理実証的考察が始まったことである。この方法は文献学や言語学には有効な方法かもしれない。誰もがこの方法を、和歌や物語の解釈にも有効であると思いたくなる。しかし、和歌と女の言葉の戯れは、論理などで捉えられるような代物ではなかったのである。「聞き耳異なるもの・女の言葉」とか「歌の言葉・浮言綺語の戯れ」ということを、素直に聞けばわかる。言語観は平安時代の清少納言・藤原俊成に帰るべきである。

 

歌の修辞法とする序詞、掛詞、縁語を指摘すれば、歌が解けたように思いたくなるが、それは、歌の表層の清げな衣の紋様の発見にすぎない。公任のいう「心におかしきところ」は、「歌の様を知り言の心を心得る人」の心にだけ、直接伝わるものである。