帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 6 なにしおへばなほなつかしみ

2013-12-25 00:03:43 | 古典

    



               帯とけの小町集



 古
今集仮名序に、小野小町の歌についての批評文がある。

小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなる様にて、強からず、いはば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

――小野小町の歌は、昔の美女衣通姫の歌体の流れである。あはれなる(哀れな…情愛が深い)ようで、それを強く表現していない。いはば、美女が悩んでいる様子に似ている歌である。(情愛、色情が)強くないのは、女の歌だからだろう。


 紀貫之が書いたと思われるこの批評に合致する歌の解釈を志向する。
今では、このような批評に同感できるような小町の歌の解釈は不在である。われわれが和歌を根本的に聞き間違えて居るのではないのか。貫之の観賞眼や批評観が間違っているはずがない。この観点から、平安時代の文脈に立ち入って、其の時の言語感と歌論に従って小町の歌を全て紐解く、千百年以上前の美女の悩ましい声が、今の人々の心に直接伝わるだろうか。


 

小町集 6

  
   をみなへしいとおほくほりて見るに

 なにしおへばなほなつかしみ女郎花 折られにけりなわれが名だてに

女郎花とっても多く掘ってあって見るときに
 
 (名付けられているので、やはり親しみ感じ、女郎花、折られたのよねえ、自分の評判立っているために……汝に、感極まれば、汝お、慕わしくて、をみな圧し、おられたことよあゝ、自分の名の立つ通りに)


 言の戯れと言の心

「な…名…汝…親しいもの」「おへば…負えば…(名が)付けられてあるので…追えば…極まれば…感極まれば」「おみなへし…女郎花…草花の名…女…をみな圧し…女圧し…をみな押さえられ」「をられ…折られ…服従させられ」「折…逝」「な…なあ…ねえ」「なだてに…評判の立つように…名の立つ通りに」。


 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」ならば古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。

貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。

 

「をみなへし」の言の心は、「女郎花」と表記するので、「言の心」は女であることは、今でも容易にわかる。俊成の言うように浮言綺語の戯れのような歌言葉とすると、をみな圧し・女押さえつけ・をみな得しなどと戯れていても不思議ではない。
 古今集撰者の一人、躬恒のおみなへしの歌を聞きましょう。秋歌上。
 をみなへし吹きすぎてくる秋風は 目には見えねど香こそしるけれ

(女郎花、吹きすぎてくる秋風は、目には見えないが、秋の香りが、はっきりと感じられるなあ……をみな圧し、吹きすぎてくる飽き満ち足りた心風は、目には見えないが、色香が、しっとりとしているなあ)。

「をみなへし…女郎花…女…をみな圧し」「秋…飽き」「香…にほい…色香…気色」「しるけれ…著るけれ…はっきりしていることよ…汁るけれ…潤んでいることよ」。