帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 3、空をゆく 4、雲はれて

2013-12-21 00:07:59 | 古典

    



               帯とけの
小町集 



 
今集仮名序に、小野小町の歌についての批評文がある。

小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなる様にて、強からず、いはば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

――小野小町の歌は、昔の美女衣通姫の歌体の流れである。哀れなようで(…情愛が深いようで)、それを強く表現していない。いはば、美女が悩んでいる様子に似ている歌である。情愛、色情が・強くないのは、女の歌だからだろう。
 このように読んで、この批評に合致する解釈を志向する。

 

紀貫之は、小町の歌をただ愛でるのではなく、歌を的確に聞き取り、正確な批評を加えているはずである。当時の帝をはじめ識者や日常に歌を詠んでいた人々をも納得させた批評のはずである。ところが、この批評が納得できるような小町の歌の解釈は今では存在しない。貫之の観賞眼や批評観が間違っているのだろうか。彼の批評が納得できないのは、われわれが和歌を根本的に聞き間違えて居るのではないか。江戸時代の国学者から始まり、明治から現代の国文学者の解き明かす小町の歌は余りにもつまらない。ほんとうに、そんな歌だったのか。このような観点から、平安時代の文脈に立ち入って、其の時の言語感と歌論に従って小町の歌を全て紐解く、千百年以上前の美女の悩ましい声が、今の人々の心に直接伝わるだろうか。何を、どのように、悩んでいるのだろうか。



  小町集

  まへわたりし人にれともなくてとらせたりし

 空をゆく月の光を雲井より 見でや闇にて世ははてぬべき

   局の前を渡って行った男に、誰からとも誰宛ともなく、てわたした、

 (空をゆく月の光を、雲井より漏れ来るのを、見ないで、闇にて世は果ててしまうのでしょうか……むなしく通り過ぎて行く月人壮士のお光を、心雲ある女は、見ないで、闇にて、夜は果ててしまうのでしょうか……空閨を通り過ぎて行く、ささらえをとこの照り輝きを、心雲満ちる井に、みることなく、闇にて、今宵は、果ててしまうのでしょうか)。


 言の戯れと言の心

「空…大空…空しい…空閨…お渡りの無い女の局」「月…月人壮士…男…ささらえをとこ(月の別名であると万葉集に記されてある)…いいおとこ」「ひかり…光…男の恵み…照り輝き」「くも…空覆う雲…心の雲…心に煩わしくも湧き立つもの…情欲など…広くは煩悩」「ゐ…居…井…間…女」「見…覯…媾…まぐあい」「で…打消しの意を表す」「世…男女の仲…夜」。

 

小町集

  返しあしたにありし

 雲はれて思ひいづれど言の葉の 散れる嘆きは思い出もなき

返事は明くる朝にあった

 (雲晴れて思う日は出ているけれど、誰かの言葉が散らす嘆きは、何のことだったか・思い出さないよ……心の雲晴れて、思火を出したけれど、小門の端が、おとこ花散らすと、嘆くのは、なぜだか・思い出さないよ)。


 言の戯れと言の心

「くも…上の歌に同じ」「ことのは…言の葉…言葉…歌…小門の端…おんな」「と…門…女」「散る…人に知られる…言いふらす…葉を散らす…おとこ花散らす」「も…強調する意を表す」。

 


 宮の内の局の女主人のために代作した歌かもしれない。返し歌は男性一般のさがが顕れている。まともに答えず、はぐらかすのは心ある人ゆえか。



  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり、同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」ならば古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。


 藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。