帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 5 みるめかるあまのゆきかふ

2013-12-24 00:01:52 | 古典

     



               帯とけの小町集



 古
今集仮名序に、小野小町の歌についての批評文がある。

小野小町は、いにしへの衣通姫の流れなり。あはれなる様にて、強からず、いはば、よき女の、悩めるところあるに似たり。強からぬは、女の歌なればなるべし。

――小野小町の歌は、昔の美女衣通姫の歌体の流れである。あはれ(哀れな…情愛が深い)ようで、それを強く表現していない。いはば、美女が悩んでいる様子に似ている歌である。(情愛・性愛の表現が)強くないのは、女の歌だからであろう。

紀貫之が書いたと思われる批評に合致する歌の解釈を志向する。今では、このような批評に同感できるような小町の歌の解釈は不在である。われわれが和歌を根本的に聞き間違えて居るのではないのか。この観点から、平安時代の文脈に立ち入って、其の時の言語感と歌論に従って小町の歌を全て紐解く、千百年以上前の美女の悩ましい声が、今の人々の心に直接伝わるだろうか。

 


 小町集 5 


    たいめんしぬべくやとあれば
 みるめかるあまの行きかふ湊路に なこその関もわれはすゑぬを

対面(物越しではなくお会い)しませんかとあったので

(海草刈る海人の行き交う湊の路に 勿来の関所なんて、わたしは据えていない・来ていいわよ……見る女かる人の行き交うみな門路に、来るなかれの関門なんて、わたしは、す・ゑ・ぬ・をんなよ)。


 言の戯れと言の心

「みるめ…海草の名…海松布…見る目…見る女」「見…覯…まぐあい」「かる…刈る…採る…狩る…猟する…娶る…まぐあう」「あま…海人…漁師…猟する人…男…おとこ」「みなと路…湊路…水門路…女」「水・門・路…女」「勿来の関…関所の名…名は戯れる。来る勿れの関門、来るなという障壁」「すゑぬを…据えないわ…す・ゑ・ぬ・を…洲・江・沼、女なので…(据え)おんななのよ」「洲・江・沼…言の心は女」「を…(据え置いてない)ので…をんな、をみな、をとめのを」。



  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。ただし、歌の漢字表記と仮名表記は適宜換えてあり、同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに「歌の様を知り、言の心を心得えたらむ人は」古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。

 

貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、煩悩である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。