帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの小町集 10 山ざとの、 11 秋の月

2013-12-30 00:11:18 | 古典

    



               帯とけの小町集



 小野小町の歌は、清げな姿をしているけれども、紀貫之のいう、歌のさま(歌の表現様式)を知り言の心(字義以外に孕む意味)を心得て聞けば、悩める美女のエロス(生の本能・性愛)が、「心におかしきところ」として、今の人々の心に伝わるだろう。歌は言の心を紐解けば、帯は自ずと解ける。



 小町集 10 


    山里にて秋の月を
 山ざとのあれたる宿をてらしつゝ 幾夜へぬらむ秋の月影

    山里にて秋の月を詠んだ……山ばの麓にて厭きの月人壮士を

 (山里の荒れている宿を、照らしながら、幾夜経たでしょうか、秋の月光は……山ばの麓の荒れているや門よ、自慢し筒、幾夜経たのかしら、厭きの尽き陰よ)。


 言の戯れと言の心

歌「山…山ば」「さと…里…女…さ門」「と…戸…門…女」「荒れたる…荒廃している…白けている…興ざめしている」「やど…宿…女…屋門…女」「てらしつつ…照らしながら…輝きながら…衒しつつ…見せびらかしつつ…自慢しつつ」「つつ…継続を表す…筒…中空…充実感なし」「秋…飽き…厭き」「月…月人壮士…男…をとこ…突き…尽き」「かげ…影…光…恵み…蔭…陰…陰り…体言止めは余韻に詠嘆の意を表す」。


 

小町集 11

 
    又、
 秋の月いかなるものぞわが心 なにともなきにいねがてにする

   再び秋の月を…その上に厭きのつきを、

(秋の月、如何なるものか、わが心、何でもないのに、眠れなくする……厭きのつき人をとこ、何なのよ、わたしの心、何とも感じないのに、眠れなくする)。


 言の戯れと言の心

「秋の月…上の歌に同じ」「いかなる…如何なる…どのような…どういう…如何に成る…どのように成就する」「なきに…無いので…無いことにより」「いねがてに…寝られないように…寝難く…眠れなく」。

 

このような歌を、大空の秋の月の景色の歌、または月を観賞しての感傷の歌と聞いているかぎり、古今集序文の小町歌批評にそぐわない。われわれが歌の聞き方を根本的に間違えていたのである。古今集などが秘伝となった鎌倉の時代以来のことで、歌の「心におかしきところ」を見失って八百年以上経つ。


 

  『群書類従』和歌部、小町集を底本とした。歌の漢字表記と仮名表記は、適宜換えたところがあり、同じではない。



 以下は、平安時代の歌を恋しいほどのものとして聞くための参考に記す。


 紀貫之は古今集仮名序の結びに、「歌の様を知り、言の心を心得える人」は、古今の歌が恋しくなるだろうと述べた。

歌の様(和歌の表現様式)については、藤原公任に聞く。公任は清少納言、紫式部、和泉式部、藤原道長らと同じ時代を生きた人で、詩歌の達人である。

優れた歌の定義を、『新撰髄脳』に次のようにまとめている。「心深く、姿清よげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」。歌は一つの言葉で複数の意味が表現されてあることを前提にした定義である。


 貫之と公任の歌論を援用して、歌を紐解いて行けば、隠れていた「心におかしきところ」が顕れる。それは、言いかえれば、エロス(性愛・生の本能)である。もう一つ言いかえれば、「煩悩」である。

藤原俊成は、『古来風躰抄』に次のように述べた。歌の言葉は「浮言綺語の戯れには似たれども、言の深き旨も顕れ、これを縁として仏の道ににも通はさんため、かつは煩悩即ち菩提なるが故に、―略― 今、歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして記し申すなり」。

歌の「心におかしきところ」に顕れるのは、煩悩であり、それを歌に詠めば、即ち菩提(煩悩を断ち真理を知って得られる境地)であるという。