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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観に依れば蘇える。
公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べた。和歌は、歌言葉の多様な戯れの意味を利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて、秀逸と言うべき歌を百首撰んだのである。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (六十四) 権中納言定頼
(六十四) 朝ぼらけ宇治の川霧たえだえに あらはれわたる瀬々の網代木
(朝、ほのぼのと明るくなるころ、宇治の川霧、途切れ途切れになって表れてくる・絶え絶えになってあらわれてくる、瀬々の、網代木・冬の風物よ……浅、洞気、憂しと思うおんな、限り、絶え絶えに、現われつづく、浅き背々の、あ、白き・ものよ)
言の戯れと言の心
「朝ぼらけ…朝、ほのぼのと明ける頃…浅ほらけ…浅、空洞…浅、中空」「浅…深く無い…色や情に深みがない…あさはか…おとこのさが」「宇治…川の名…名は戯れる。うじうじした、憂し、ゆうつ」「川…言の心は女・おんな」「きり…霧…限り…最終…最後」「たえだえ…途切れ途切れ…立て込んでいない…絶え絶え…尽きそうな気配」 「あらはれ…現われ…表われ」「わたる…(見え)つづく…(見え)ひろがる」「瀬々…浅瀬浅瀬…背背…男男…浅背浅背…浅いおとこども」「網代木…あじろぎ…氷魚を獲る仕掛け用の杭…冬の風物…体言止めで余情がある…あ白木…白きおとこ」「あ…接頭語…あれ」「しろ…代…白…色褪せた…色の果て…おとこのものの色」「木…言の心は男」
歌の清げな姿は、氷魚(ひを)漁の最盛期の過ぎたころ、宇治川の浅瀬に残る網代の杭と川面の朝霧の風景。
心におかしきところは、やまば過ぎれば、絶え絶えとなって、おんなに憂しと思わせる情浅きおとこのありさま。
千載和歌集 冬歌、詞書「宇治にまかりて侍りける時よめる」。宇治の川面の風景と彷彿させる漁師の営みは、歌の「清げな姿」や「心」である。言の戯れに顕れる、はかなきおとこのさがが「心におかしきろころ」である。これで一応、和泉式部の娘、小式部内侍の歌の「大いなる山ばも、逝く野も、まだ経験ないのよ、あまの端立てて」に、かろうじて対抗できるが、妖艶さには敵わないだろう。藤原定頼は四条大納言公任の長男である。同じ歌論に基づいて歌を詠んでいるはずである。
国文学的な解釈との違いに疑問を感じる人々に、「帯とけの」が和歌を解くときに基本とした平安時代の歌論と言語観を列挙します。(以下は、帯とけの前十五番合などをはじめ他にも同じ主旨のことが記してある。再掲載である)
①紀貫之は古今集仮名序の結びに「歌のさま(様)を知り、こと(言)の心を得たらむ人は、大空の月を見るがごとくに、古を仰ぎて今を恋ひざらめかも」と述べた。この二つのことを解明すれば歌は解ける。
②藤原公任「新撰髄脳」に「およそ歌は、心深く、姿清げに、心におかしきところあるを優れたりというべし」と優れた歌の定義を述べた。これに、歌の様(歌の表現様式)が捉えられてあった。
③清少納言枕草子(第九十五)に、「つつむ事さぶらはずは、千の歌なりと、是よりなん、いでまうでこまし(慎むことがいらないならば、千首でも、今からでも、詠み出すでしょうに・父元輔の名を汚すまいと慎ましくしておりますが……清げな姿に包まなくてもいいのなら、今からでも、人に先んじても・千の歌でも詠み出すでしょう・生々しい心におかしきことなら多々あります)と述べたのである。歌は、人の心根を「清げな姿」で包んで表現すものであった。
③藤原俊成の「古来風躰抄」に「歌の言葉は・浮言綺語の戯れには似たれども、(そこに)ことの深き旨も顕はれる」とある。歌の言葉は、それぞれ複数の意味を孕んでいるので、歌に公任の言う複数の意味を表現することが可能である。「言の心」と言の戯れを紐解けば、帯が解け歌の深い意味が顕れる。それを、俊成は、煩悩即菩提(人の心根は煩悩であり歌に詠めば即ち悟りの境地)であるという。
言葉の意味は論理的に説明できない。既成事実としてある意味を、ただそうと心得るだけである。例えば「春」は「季節の春・立春・春情・張る」などという心を、歌に用いられる前から孕んでいる。「春」とあれば「季節の春」と一義に決めつけ、他の意味を削除してしまうのは不心得者である。和歌は複数の意味を孕むやっかいな言葉を、逆手にとって、歌に複数の意味を持たせてある、高度な文芸であった。
広く定着してしまった国文学的な和歌の解き方は、ほぼ字義どおりに一義に聞き、序詞や掛詞や縁語であることを指摘して、歌言葉の戯れを把握できたと錯覚させる。歌の「心におかしきところ」は伝わらないので、歌の心に付いて、解釈者の憶見を加えるという奇妙な方法である。平安時代の貫之、公任、俊成の歌論や言語観を曲解し無視してしまった結果である。