帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (六十八) 三条院 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-09 19:30:09 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌の奥義は、原点に帰って、紀貫之、藤原公任、清少納言、
定家の父藤原俊成ら平安時代の歌論と言語観によって紐解けば、人の生々しい心根として蘇える。

公任は「およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしきところあるを、優れたりと言うべし」と優れた歌の定義を述べた。和歌は、歌言葉の多様な戯れの意味を利して、一首に、同時に、複数の意味を表現する様式であった。「心におかしきところ」とは、性愛・生の本能ともいうべきもの、俊成は「煩悩即菩提」と言った。

藤原定家は上のような人々の歌論や言語観に基づいて、秀逸と言うべき歌を百首撰んだのである。



 藤原定家撰「小倉百人一首」
(六十八) 三条院


  (六十八) 
 心にもあらず憂き世にながらえば 恋しかるべき夜半の月かな

(心ならずも、うっとうしい世に長らえていれば、恋しくなって当然の、明るい・夜半の月だなあ……心、ここになくて、浮き夜に長らえていれば、乞いしがって当然の、夜半の、元気な・月人おとこかなあ・許せよ)

 

言の戯れと言の心

「心にもあらで…心ならずも…心ここに無く…無情に」「うき…憂き…つらい…うっとうしい…浮き…心浮き浮き」「よ…世…夜」「こひ…恋…乞い…求め」「べき…べし…推量を表す…当然・適当を表す」「夜半…夜深いとき…夜のものの半ば」「月…月人壮士(万葉集の歌語)…つきよみをとこ(万葉集の歌語)…ささらえをとこ(万葉集以前の月の別名と万葉集の坂上郎女の歌に左注がある)…月の言の心は男・おとこ」「かな…感嘆・詠嘆の意を表す」。

 

歌の清げな姿は、世の中のことを思いながら月を眺める、御姿。

心におかしきところは、御体調ゆえか、おとこのさがか、ものの半ばで衰えゆく、気付き・詠嘆・女御への御心遣い。

 

後拾遺和歌集 雑一、詞書「れいならずおはしまして、くらゐなどさらんと、おぼしめしけるころ、月のあかかりけるをごらんじて」、三条院御製。

「れいならず…(体調など)平常では無く…(気分など)普通では無く(藤原道長に我が娘腹の皇子への譲位を迫られていたという)」「くらゐ…位…暗い」「さらん…去らむ…払拭しょう」「月のあかかり…月の明るい…つき人おとこの元気な」「赤…元気色」。

 

三条天皇は、御目もご不自由になられていたというが、「大鏡」の語るところによれば、御目のことは「空言のやうにぞおはしましける」という。この頃、少し離れたところに居られた内親王の「挿し櫛」の挿し方の間違いをご注意され直させられたことがあったという。

ほんとうは、月も、可愛い内親王も、世の中も、女御も、よくお見えになられていたのだろう。「恋しかるべき、闇よを明るく照らす、月人壮士かな」には、藤原道長のくらい世を憂うる「深い心」もあるだろう。