帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (八十二) 道因法師 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-25 19:37:13 | 古典

             



                      「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 「百人一首」の和歌を、紀貫之、藤原公任、清少納言、定家の父藤原俊成の歌論と言語観に従って、歌の「表現様式」を知り、「言の心」を心得て、且つ歌言葉は「浮言綺語に似て」意味が戯れることも知って、和歌を聞けば、
「心におかしきところ」や「言の戯れに顕れる深い主旨・趣旨」が心に伝わる。それは、ものに「包む」ように表現されて有り、まさに「煩悩」であった。

百首のうち八割程の歌を紐解いてきて、撰者の藤原定家と同じ文脈に足を踏み入れて、同じ「聞き耳」をもって歌を聞いているという確信が高まる。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (八十二) 道因法師


  (八十二)
 思ひわびさても命はあるものを うきにたへぬは涙なりけり

 

(叶わぬ恋に・思い悩み哀しく心細くなって、それでも、命は在るので、憂きことに絶えないのは涙だったなあ……思い火、乏しくなって、それでも、ものの命はあるので、浮きことに、我慢できないのは、汝身唾であったなあ)

 

言の戯れと言の心

「思ひ…憂い…悩み…恋慕う気持ち…思い火…情愛」「わび…わぶ…悩む…悲観する…心細く嘆く…乏しくなる」「さても…そうであっても…それでも」「ものを…ので(順接、感嘆・詠嘆の意を含む)」「うき…憂き…浮き」「たへぬ…たえぬ」「たえぬ…絶えない…常に…ひっきりなしに」「たへぬ…堪えない…耐えない…我慢できない」「なみだ…目の涙…もののなみだ…汝身唾…おとこの精根…おとこ白つゆ」「なりけり…であった…(いま気付いてみると)であったなあ」。

 

歌の清げな姿は、叶わぬ恋、憂きに絶え間なくこぼれるのは、男の涙であった。それでも・よくぞ、命は在ったことよ。

心におかしきところは、思い火乏しくても、浮きことに耐えられず、もらすのは、おとこの身のなみだであった。それでも、ものの命は在ったなあ・股は又繰り返す。

 

上の「歌言葉」は、「掛詞」とか「縁語」という概念では捉えられない。俊成の言う「浮言綺語の戯れに似た」戯れの意味が、それぞれに有るのである。

男とそのおとこの心根、そのありさまを、わずか三十一文字の言の葉として表わした秀逸の歌。古今集仮名序冒頭に言う「やまと歌は人の心を種として万の言の葉とぞなれりける、云々」の範疇に在る。

 

千載和歌集 恋三 題しらず。道因法師。

道因法師は、法性寺左大臣忠頼の時代、藤原顕輔らと、ほぼ同じ世代の人、晩年に出家したという。