帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

「小倉百人一首」 (七十三) 権中納言匡房 平安時代の歌論と言語観で紐解く余情妖艶なる奥義

2016-03-15 19:47:00 | 古典

             



                     「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義



 和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。


 

藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十三) 権中納言匡房(大江まさふさ)


   (七十三)
 高砂のをのへの桜さきにけり と山の霞たたずもあらなむ

(高砂の尾根の上の桜が咲いたことよ・眺めよう、外山の・周辺の山の、霞立たないでほしい……高くはかないおの山ばの、おとこ花咲いてしまったよ、との山ばの、か済み・か澄み、もう起たないでほしい)

 

言の戯れと言の心

「高砂の…地名又は山の名…名は戯れる。高い砂の()、高くもろい()」「山…ものの山ば」「をのへ…尾根の上…峰…頂上…絶頂」「桜…木の花…男花…(はかなく咲き散る)おとこ花」「と山…外山…他山…おとこ山ばではなお女の山ば」「と…戸・門…言の心は女」「霞…かすみ…か済み…ことの済み…か澄み…心の澄み」「か…接頭語…あれ…あの」「たたず…立たず…起たず」「も…強調」「あらなむ…有って欲しい…(そのままで)在って欲しい…相手への希望を表す」

 

歌の清げな姿は、はるかなる山に咲いた桜を眺望するために、周辺の山の霞への願い事。

心におかしきところは、男のはかないさがゆえに、一度の和合で尽きたおとこの懇願。

 

 後拾遺和歌集 春上 詞書「内大臣の家にて、人々酒たうべて歌詠み侍けるに、はるかに山桜をのぞむといふ心をよめる」とある。(遥かに山桜を眺望するという心を詠んだ……ひさしき山ばのおとこ花を望むという心を詠んだ)ということである。山桜の遠景の写生ではない。この時代の歌は風景描写があったとしても、「心を」表現するための、「清げな姿」である。


 大江匡房朝臣は、和漢の学と有識故実にも通じた人。和歌は、後拾遺集、詞花集など勅撰集に多数入集。


 

匡房より六十年以上昔の人ながら、「いづみしきぶ」の歌が、同じ春上にあるので聞きましょう。

 春霞たつや遅きと山川の 岩間をくぐるおと聞ゆなり

清げな姿は略す……春の情、済み・澄んで、絶ったかな遅いなあと、山ば流れた側が、わが・岩間を潜る、音・おとこの声、聞こえている)


 「岩・間…ことの心は女・おんな」「音…おと…声」「お…おとこ」

 

(申し遅れましたが、歌と題の原文は、『新編 国歌大観』による。ただし、ひらがなと漢字表記は、原本と必ずしも同じではない。又、当方のミスで誤写があるかもしてないので、正当な原文は原本をご覧ください)