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「小倉百人一首」余情妖艶なる奥義
和歌を解くために原点に帰る。最初の勅撰集の古今和歌集仮名序の冒頭に、和歌の定義が明確に記されてある。「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞ成れりける。世の中に在る人、事、わざ、繁きものなれば、心に思ふ事を、見る物、聞くものに付けて、言いだせるなり」。「事」は出来事、「わざ」は業であるが、技法でも業務でもない、「ごう」である。何らかの報いを受ける行為とその心とすると、俊成のいう「煩悩」に相当し、公任のいう「心におかしきところ」(すこし今風に言いかえれば、エロス、性愛・生の本能)に相当するだろう。これが和歌の真髄である。
藤原定家撰「小倉百人一首」 (七十五) 藤原基俊
(七十五) ちぎりおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり
(千切り置いたさせも草の、はかなく消える・露を命の証しとして、あはれ今年の秋も去ってしまったようだ……情けを交わし贈り置いた、させもが草の・くすぶりつづく女の、白つゆを、はかない我がものの・命として、あはれ、こ疾しの飽きも、逝ってしまったようだ)
言の戯れと言の心
「ちぎり…千切り…契り…約束…女と男の交情」「おきし…置いた…(露が)降りた…送り降りた…贈り置いた」「させも…草の名…名は戯れる。もぐさの原料、くすぶるもの、燃え上がらぬもの」「草…言の心は女…若草の妻などと用いられた」「露…秋の露…白露…おとこ白つゆ」「あはれ…愛しい…感嘆…哀れ…悲嘆」「今年…本年…こ疾し…これ急速…これ一瞬…おとこのさが」「秋…季節の秋…飽き…厭き」「いぬ…往ぬ…去る…死ぬ…逝く」「ぬ…完了を表す」「めり…推量を表す」。
歌の清げな姿は、年毎に老境に入る男の歌。
心におかしきところは、消えやすい白つゆの命のように、この夜でのわが汝おも、あはれ、飽き果てたようだ。
千載和歌集 雑歌上 詞書「律師光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、たびたびもれにければ、法性寺入道前太政大臣にうらみ申しけるを、しめぢがはらと侍りけれども、又そのとしももれにければ、よみてつかはしける」。
光覚は基俊の子息で、入道前太政大臣忠通は維摩会の主催者という。
光覚が講師の役を申請していたのに度々もれたので、うらみ言を申したところ、
なほ頼めしめぢが原のさせも草 われ世の中に在らん限りは
(それでも猶たのみ給え、しめぢが原のさせもくさ・効き目あるはず、われ世の中に在る限りは……猶も・汝おも、頼めよ、門・閉めない腹のうちの、させも女、おのれ、夜の中に健在である限りはね)
このような古歌を引用しての返事だったが、今年も又漏れたので、詠んで遣った歌。
藤原基俊は藤原俊成の歌の師であった。忠通より三十歳ばかり年長。忠通は三十数歳で関白太政大臣であったが、この時代は、天皇・太政大臣よりも、上皇が実権を握っておられた、院政の時代であった。