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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (193)
是貞親王家歌合の歌 大江千里
月見れば千ゞにものこそかなしけれ わが身ひとつの秋にはあらねど
是貞親王家(宇多天皇と御兄弟のお方の家、寛平の御時の)歌合の歌。 大江千里
(月見れば、心が千々にみだれて、風物が、何となく哀しく感じられることよ、我が身一つにきた秋ではないけれど……月人壮士、尽きてみれば、縮に、ものが、哀しく愛しいことよ、我が身一つの飽きではないけれど・妻もろともに迎えた飽きだけれど)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「月…月人壮士」「見…覯…媾…まぐあい」「ちぢに…千々に…多数あるさま…縮々に…縮みに縮み」「もの…万物…風物…言い難きもの…身の一つのもの…おとこ」「秋…飽き…飽き満ち足り…厭き…嫌気」「ね…ず…打消しを表す」「ど…のに…だが」。
月を見れば、あれこれと感傷的になり、哀しいことよ、わが身一つに来た秋ではないのに・世の中みな秋なのに。――歌の清げな姿。
月人壮士、尽きて見れば、縮々に、ものがもの哀しく、いじらしいことよ、わが身独りの飽き満ち足りではないのに・女も共なのに。――心におかしきところ。
秋の感傷的になる風情に付けて、女と男もろともに、浮天の波に漂った後の、愛しく哀しいありさまを、言い出した歌のようである。
この歌、「百人一首」にあるので、現代語の意味は小さな古語辞典にも載っているだろう。例外なく「清げな姿」を歌の全てのように解かれてある。江戸の国学的解釈以来、数百年経つので、その解釈が常識化されてしまった。凡庸な自然観照の歌となったままである。明治の正岡子規ならずとも「くだらない歌」と言いたくなるのに。「千ゞ」と「一つ」の対照が表現の技巧であると、口をそろえて指摘する。お門違いのところに、歌の愛でるべきところを移してしまった。
心深くもなく、「心におかしきところ」も聞こえないと、藤原公任の歌論も、くだらない空論として無視するしかない。奇妙な国文学的解釈の方は、誰も疑わなくなってしまった。これが古典和歌解釈の現状である。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)