■■■■■
帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (194)
(是貞親王家歌合の歌) 忠岑
久方の月の桂も秋は猶 もみぢすればやてりまさるらむ
ただみね
(久方の月の桂樹も、秋はやはり紅葉するから、照り輝き増すのだろうか……久堅の月人壮士の、且つら木も、飽きは、汝おも、色づくからかな、ほてり増すのだろう)。
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「久方の…ひさかたの…枕詞…久堅の(万葉集にこの表記がある)…久しく堅い」「月…月人壮士(万葉集の歌語)…月の言の心は男…大昔の月の別名は、ささらえをとこ」「かつら…桂樹(月に生えているという伝説の木)…木の言の心は男…梅・桜などはその代表…且つら…すぐにまた」「ら…状態を表す」「秋…飽き(満ち足り)」「猶…なほ…やはり…なお…汝お…おとこ」「な…汝…親しいものをこう呼ぶ」「もみぢ…紅葉…秋色…飽きの色情」「てり…照り…日月の放つ光…ほてり…熱くなること」。
ひさかたの月の桂樹も、秋にはやはり紅葉するからかな、照り輝き増すのだろう。――歌の清げな姿。
久しく堅い月人壮士の、且つらおとこも、飽き満ち足りは、なおもまた色づくので、ほてり増すのだろうか。――心におかしきところ。
月人壮士という第三者のことのように、おとこは、このようでありたいという願望を表出した歌のようである。
詠み人の名を公表する男の「歌人」の歌合の歌は、恥や面目を棄てられないので、「心におかしきところ」で、本音を直には表出し難いのである。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)