帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの「古今和歌集」 巻第四 秋歌上 (195)秋の夜の月のひかりしあかければ

2017-04-07 19:18:12 | 古典

             

 

                        帯とけの古今和歌集

                ――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――

 

国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。

 

古今和歌集  巻第四 秋歌上 195

 

月をよめる               在原元方

秋の夜の月のひかりしあかければ くらふの山もこえぬべら也

月を詠んだと思われる・歌……つき人をとこを詠んだらしい・歌。 もとかた(巻頭の一首の作者・在原業平の孫)

(秋の夜の月の光が、これほど・明るければ、くらぶの山も・暗ふの山も、越えてしまいそうだ……飽きの夜の、月人壮士の照り輝き赤ければ・突き人おとこ元気ならば、親しみあるあの山ばも、越えてしまいそうだ)。

 

 

歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る

「秋…飽き…厭き」「月…月人壮士…男」「ひかり…光…月光…男の栄光・威光…魅力ある男の輝き…おとこのほてり」「あか…明…赤…元気色・血色の良い」「くらふ…山の名…暗ふ…暗い状態が続いている…比ぶ…親しい(土佐日記に、この意味で用いられてある)」「ふ…接尾語…そのような状態が継続していることを示す」「山…山ば…感情の山ば」「こえぬ…越えてしまう…山ば越え(女を有頂天に送り届ける)「ぬ…完了した意を表す…してしまう…(自然に)そうなってしまう」「べらなり…しそうだ…の様子だ」。

 

秋の夜の月の光が、明るければ、暗いと伝承されている山も、越えてしまうだろう。――歌の清げな姿。

歌を一瞥するだけならば、巻頭の一首と同じように、凡庸な発想のくだらない歌のように見える。しかしこれらは、歌の隠れ蓑である。歌を、あえて凡庸な衣に包んである。

 

飽きの夜のつき人をとこの照りが、赤く元気ならば、あの親しき山ばを、越えてしまうだろう・もろともに有頂天に達するだろうよ。――心におかしきところ。

 

清少納言は、枕草子(95・五月の御精進のほど)、郭公(ほととぎす・カツコウ・女の且つ乞う)の声を聞きに賀茂の奥まで行ったのに、歌を詠んで来なかったので、定子中宮に、今からでもいいから、詠みなさいと責め立てられて、とうとう拗ねてしまった事がある。その後の清少納言の弁。

つつむ事、さぶらはずは、千の歌なりと、これよりなん、出でまうでこまし、と啓しつ。

「慎むこと・包むこと、いらないのならば、わたくし・一千の歌でも、いまよりですね、言い出せるでしょう」と、定子中宮に・申し上げた。

ここに、清少納言の歌の表現方法の認識が示されてある。「包むこと」は、仮名序の「見る物、聞くものに付けて言い出せるなり」や、公任のいう「清げな姿」に通じる、歌の表現方法の正当な認識である。歌は全て人の生々しい心を清げな衣に包んで表現するものである。

 

(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)