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帯とけの「古今和歌集」
――秘伝となって埋もれた和歌の妖艶なる奥義――
国文学が全く無視した「平安時代の紀貫之、藤原公任、清少納言、藤原俊成の歌論と言語観」に従って、古典和歌を紐解き直せば、仮名序の冒頭に「やまと歌は、人の心を種として、よろずの言の葉とぞ成れりける」とあるように、四季の風物の描写を「清げな姿」にして、人の心根を言葉として表出したものであった。その「深き旨」は、俊成が「歌言葉の浮言綺語に似た戯れのうちに顕れる」と言う通りである。
古今和歌集 巻第四 秋歌上 (212)
寛平御時后宮歌合の歌 藤原菅根朝臣
秋風に声をほにあげてくる舟は 天の門わたるかりにぞありける
(寛平御時后宮歌合の歌) 藤原菅根朝臣(菅原道真が流罪となった時、太宰府に同行して、そのまま、太宰府の少弐(三等官)となったようである。のち都に復帰して参議となる)
(秋風吹く時に、声を帆のように張り上げてくる舟は、天の水門を渡る、雁であったことよ……飽き風の心に吹く時に、小枝を帆のように上げて、来る繰る夫根は、あまの門わたるかりであったなあ)
歌言葉の「言の心」を心得て、戯れの意味も知る
「秋風…季節風…飽き風…心に吹く飽き満ち足りた風」「に…時を示す」「こゑ…声…小枝…おとこ」「ほにあげて…帆のように張り上げて…張って」「くる…来る…行く…繰る…繰り返す」「舟…ふね…夫根…おとこ」「あま…天…吾女…女」「と…門…水門…身門…おんな」「かり…雁…刈・狩・めとり…まぐあい」。
秋風吹く時に帆を張り、船頭たちが・声張りあげ漕ぎ行く舟は、天の水門渡る雁の群れだったことよ。――歌の清げな姿。
飽き満ちた風が心に吹く時に、小枝を帆のように張って、ゆくくる繰り返す夫根は、女のみ門わたるかりだったなあ。――心におかしきところ。
ただ、おとこの、かりするありさまを、詠んだ歌のようである。藤原菅根の歌は、古今集にこの一首のみである。心深くはない歌で、伝承人麿歌と対比するために、ここに置かれたようである。
仮名序にいう「今の世の中、色につき、人の心、花になりにけるより、あだ(徒・婀娜・不実)なる歌、はかなき言のみ出で来れば、色好みの家に、埋もれ木の、人知れぬこととなりて、まめなる所には、花薄、穂に出だすべきことにもあらずなりにたり」という歌群に属する歌だろうか。
(古今和歌集の原文は、新 日本古典文学大系本による)