帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第一 春 (三十五)(三十六)

2015-02-05 00:13:42 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。


 

拾遺抄 巻第一 春 五十五首


          (題不知)                      みつね

三十五 あおやぎのはなだのいとをよりあはせ たえずもなくか鶯の声

(題しらず)                     躬恒

(青柳のはなだ色の糸を撚り合わせ、絶えず鳴くのだろうか、鶯の声……若い枝垂れ木の、薄あい色の糸を、撚り合わせ、絶えないでと泣くのだろうか、浮く泌す女の声)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「あおやぎ…青柳…若い枝垂れ木」「木…言の心は男」「はなだ…色の名…薄い藍色」「いと…糸…細い…弱い…よれよれ」「よりあはせ…撚り合わせ…強く太くして」「たえずも…絶えないで…せめて絶えないで」「なく…鳴く…泣く」「か…疑問を表す…感嘆を表す」「鶯…鳥の名…鳥の言の心は女…名は戯れて、憂く否す、浮く泌す」

 

歌の清げな姿は、新緑の候、青柳に鶯の鳴く風情。

心におかしきところは、枝垂れた若ものを惜しみ泣く女の声。

 

貫之と躬恒の勝劣を尋ねられた源俊頼(金葉和歌集撰者)は、「躬恒をば侮り給うな」とお答えになられたという。同感できれば、躬恒の歌を、俊頼に近い解釈ができているのだろう。

 

 

(題不知)                      元輔

三十六 とふ人もあらじとおもひし山里に 花のたよりに人めみるかな

       (題しらず)                      清原元輔

(訪う人もありはしないと思った山里に、花だよりに、人の往来が見えることよ……訪う人はいないと思っていた山ばの女に、お花の便り・多撚り・頼りに、男、め見ることよ)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「山里…山深い里…山ばの女…山ばのさ門」「に…場所を示す」「花…桜花…木の花…男花…おとこ端」「たより…便り…知らせ…頼り…多撚り…強い太い」「に…によって…のために…ので」「人めみる…人の往来ある…人の出入りある…ひとの目見る…まぐあう」「人…人々…男」「め…目…女」「見…覯…媾…まぐあい」「かな…感嘆・感動を表す」

 

歌の清げな姿は、山里の花の季節の風景

心におかしきところは、山ばの女にたよられた男の頑張り。

 

歌言葉の表面からは、清げな景色が見えるだけ、それに「包まれてある」のは、生々しい人の営みである。

清少納言が「包む必要が無いなら、わたくし、今からでも、千の歌でも詠み出しますわ」と言うのを、ほほ笑みを以て聞ければ、「歌の様」がわかったと言えるだろう。人は誰でも言い出したいことは常に千ほどもある、「業(わざ・ごう)繁きもの」だから。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


 

以下は、平安時代の人たちが捉えた和歌の真髄である。原文を掲げる。

 

紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。

○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。

○歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋いざらめかも。

 

藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。

○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。

 

清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。

○その人の後と言われぬ身なりせば、こよひの歌を先ずぞ詠ままし。つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これより出でもうで来まし。

 

藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。

○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶にも、あはれにも、聞こゆることのあるなるべし。

 

歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。

 

清少納言『枕草子』第三章に、当時の人たちの言語観を捉えた文がある。

○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。

(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。

 

藤原俊成『古来風躰抄』に歌言葉について述べられた部分がある。

○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ(云々)。

(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)