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帯とけの拾遺抄
「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。
紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。
拾遺抄 巻第一 春 五十五首
(題不知) みつね
三十五 あおやぎのはなだのいとをよりあはせ たえずもなくか鶯の声
(題しらず) 躬恒
(青柳のはなだ色の糸を撚り合わせ、絶えず鳴くのだろうか、鶯の声……若い枝垂れ木の、薄あい色の糸を、撚り合わせ、絶えないでと泣くのだろうか、浮く泌す女の声)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「あおやぎ…青柳…若い枝垂れ木」「木…言の心は男」「はなだ…色の名…薄い藍色」「いと…糸…細い…弱い…よれよれ」「よりあはせ…撚り合わせ…強く太くして」「たえずも…絶えないで…せめて絶えないで」「なく…鳴く…泣く」「か…疑問を表す…感嘆を表す」「鶯…鳥の名…鳥の言の心は女…名は戯れて、憂く否す、浮く泌す」
歌の清げな姿は、新緑の候、青柳に鶯の鳴く風情。
心におかしきところは、枝垂れた若ものを惜しみ泣く女の声。
貫之と躬恒の勝劣を尋ねられた源俊頼(金葉和歌集撰者)は、「躬恒をば侮り給うな」とお答えになられたという。同感できれば、躬恒の歌を、俊頼に近い解釈ができているのだろう。
(題不知) 元輔
三十六 とふ人もあらじとおもひし山里に 花のたよりに人めみるかな
(題しらず) 清原元輔
(訪う人もありはしないと思った山里に、花だよりに、人の往来が見えることよ……訪う人はいないと思っていた山ばの女に、お花の便り・多撚り・頼りに、男、め見ることよ)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「山里…山深い里…山ばの女…山ばのさ門」「に…場所を示す」「花…桜花…木の花…男花…おとこ端」「たより…便り…知らせ…頼り…多撚り…強い太い」「に…によって…のために…ので」「人めみる…人の往来ある…人の出入りある…ひとの目見る…まぐあう」「人…人々…男」「め…目…女」「見…覯…媾…まぐあい」「かな…感嘆・感動を表す」
歌の清げな姿は、山里の花の季節の風景
心におかしきところは、山ばの女にたよられた男の頑張り。
歌言葉の表面からは、清げな景色が見えるだけ、それに「包まれてある」のは、生々しい人の営みである。
清少納言が「包む必要が無いなら、わたくし、今からでも、千の歌でも詠み出しますわ」と言うのを、ほほ笑みを以て聞ければ、「歌の様」がわかったと言えるだろう。人は誰でも言い出したいことは常に千ほどもある、「業(わざ・ごう)繁きもの」だから。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。
以下は、平安時代の人たちが捉えた和歌の真髄である。原文を掲げる。
紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。
○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。
○歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋いざらめかも。
藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。
○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。
清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。
○その人の後と言われぬ身なりせば、こよひの歌を先ずぞ詠ままし。つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これより出でもうで来まし。
藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。
○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶にも、あはれにも、聞こゆることのあるなるべし。
歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。
清少納言『枕草子』第三章に、当時の人たちの言語観を捉えた文がある。
○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。
(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。
藤原俊成『古来風躰抄』に歌言葉について述べられた部分がある。
○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れ(云々)。
(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)