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帯とけの拾遺抄
「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。
紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。
拾遺抄 巻第一 春 五十五首
題不知 読人不知
三十三 さくら色に我がみのうちは成りぬらん 心にしみて花ををしめば
題しらず よみ人しらず(男の歌として聞く)
(桜色に我が身の内は染まってしまうだろう、心に深く感じて花を愛し、散るのを・惜しめば……薄紅色に我が身の内のものは、成ってしまうだろう、心に深く感じて、お花を愛しみ、散り果てを恐れ・がんばれば)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「さくら色…桜花の色…薄紅色…がんばりの色がにじみでた白…おとこ花」「みのうち…身の内…身の中」「心にしみて…心に深く染まって…心に深く感じて」「花…桜花…おとこ花」「をしむ…惜しむ…愛着し失うのを恐れる…愛でて散るのを惜しむ」
歌の清げな姿は、桜花の美しさ賞讃、愛惜。
心におかしきところは、散るのを惜しむおとこのけなげながんばり。
題不知 読人不知
三十四 花見にはむれてくれどもあをやぎの いとの本にはよる人もなし
題しらず よみ人しらず(男の歌として聞く)
(花見には群れて来るけれども、青柳の、細枝の・糸のようなもとには、寄る人も・撚りをかける人もなし……お花見に、蒸れて来るけれども、若木の、なよやかな細枝の・糸のようなもとには、寄り合う女もなし)
歌言葉の「言の心」と言の戯れ
「花見…桜の花見…男花見」「花…木の花…言の心は男」「見…覯…媾…まぐあい」「むれて…群れて…蒸れて…熱く湿って」「あをやぎ…青柳…若い枝垂れ木」「花の木ではない木も、言の心は男」「いとの…糸のように…細い…なよなよとした」「の…のように…比喩を表す」「よる人…寄る人々…寄り来る女…縒る人…寄り合う女」「も…さらにもう一つ添える…意味を強める」
歌の清げな姿は、花見には群がり青柳には寄る人もない世の習い。
心におかしきところは、しだれた青い細い身の枝に寄りくる女はいない。
『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。
平安時代の人たちが捉えた和歌の真髄である。原文を掲げる。
紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。
○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。
○歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋いざらめかも。
藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。
○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。
清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。
○その人の後と言われぬ身なりせば、こよひの歌を先ずぞ詠ままし。つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これより出でもうで来まし。
藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。
○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶にも、あはれにも、聞こゆることのあるなるべし。
歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。
清少納言『枕草子』第三章に、当時の人たちの言語観を捉えた文がある。
○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。
(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。
枕草子を書くに当たって、そこで用いる言葉には一つの言葉に複数の意味があり、それらが活用されてあることを述べ置いたのである。枕草子の散文も歌言葉と同じように聞くべきである。
無難に訳せば、(同じ言葉であっても、聞く耳によって、抑揚など発音の感じの・異なるものが、法師の言葉、男の言葉、女の言葉である。下衆の言葉には、必ず、長々と・文字が余っている)となるが、今更ありふれた余分なことを、歌言葉を心得た読者を前にして、わざわざ書くわけがないのである。
藤原俊成『古来風躰抄』に歌言葉について述べられた部分がある。
○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる(云々)
(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)。
このような言語観で歌の言葉に接するべきである。近世以来の学問の捉えた、序詞、縁語、掛詞などという規定は、「浮言綺語に似た戯れ」の波にのみこまれてしまうだろう。歌の解釈には役立たない。