帯とけの古典文芸

和歌を中心とした日本の古典文芸の清よげな姿と心におかしきところを紐解く。深い心があれば自ずからとける。

帯とけの拾遺抄 巻第一 春 (三十三)(三十四)

2015-02-04 00:10:13 | 古典

        



                     帯とけの拾遺抄



 「拾遺抄」十巻の歌の意味を、主に藤原公任の歌論に従って紐解いている。

紀貫之・藤原公任・清少納言・藤原俊成らの、平安時代の歌論や言語観を無視するか曲解して、この時代の和歌を解釈するのは無謀である。彼らの歌論によれば、和歌は清げな衣に包んで表現されてある。その姿を観賞するのではなく、歌の心を憶測するのでもなく、「歌の様(表現様式)を知り」、「言の心」を心得れば、清げな衣に「包まれた」歌の「心におかしきところ」が顕れる。人の「心根」である。言い換えれば「煩悩」であり、歌に詠まれたからには「即ち菩提(真実を悟る境地)」であるという。


 

拾遺抄 巻第一 春 五十五首


       題不知                      読人不知

三十三 さくら色に我がみのうちは成りぬらん 心にしみて花ををしめば

題しらず                     よみ人しらず(男の歌として聞く)

(桜色に我が身の内は染まってしまうだろう、心に深く感じて花を愛し、散るのを・惜しめば……薄紅色に我が身の内のものは、成ってしまうだろう、心に深く感じて、お花を愛しみ、散り果てを恐れ・がんばれば)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「さくら色…桜花の色…薄紅色…がんばりの色がにじみでた白…おとこ花」「みのうち…身の内…身の中」「心にしみて…心に深く染まって…心に深く感じて」「花…桜花…おとこ花」「をしむ…惜しむ…愛着し失うのを恐れる…愛でて散るのを惜しむ」

 

歌の清げな姿は、桜花の美しさ賞讃、愛惜。

心におかしきところは、散るのを惜しむおとこのけなげながんばり。

 

 

題不知                  読人不知

三十四 花見にはむれてくれどもあをやぎの いとの本にはよる人もなし

題しらず                 よみ人しらず(男の歌として聞く)

(花見には群れて来るけれども、青柳の、細枝の・糸のようなもとには、寄る人も・撚りをかける人もなし……お花見に、蒸れて来るけれども、若木の、なよやかな細枝の・糸のようなもとには、寄り合う女もなし)

 

歌言葉の「言の心」と言の戯れ

「花見…桜の花見…男花見」「花…木の花…言の心は男」「見…覯…媾…まぐあい」「むれて…群れて…蒸れて…熱く湿って」「あをやぎ…青柳…若い枝垂れ木」「花の木ではない木も、言の心は男」「いとの…糸のように…細い…なよなよとした」「の…のように…比喩を表す」「よる人…寄る人々…寄り来る女…縒る人…寄り合う女」「も…さらにもう一つ添える…意味を強める」

 

歌の清げな姿は、花見には群がり青柳には寄る人もない世の習い。

心におかしきところは、しだれた青い細い身の枝に寄りくる女はいない。


 

『拾遺抄』の原文は、新編国歌大観(底本は宮内庁書陵部本)によった。歌番もそのまま附した。群書類従に別系統の底本の原文がある、参考とした。


 

平安時代の人たちが捉えた和歌の真髄である。原文を掲げる。


 紀貫之の歌論の表われた部分を古今和歌集『仮名序』より書き出す。

○やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、こと、わざ、繁きものなれば、心に思ふことを、見る物、聞くものに付けて、言ひ出せるなり。

○歌のさまを知り、ことの心を得たらむ人は、大空の月を見るが如くに、いにしへを仰ぎて、今を恋いざらめかも。

藤原公任の歌論は『新撰髄脳』の「優れた歌の定義」にすべてが表われている。

○およそ歌は、心深く、姿きよげに、心におかしき所あるを、すぐれたりといふべし。

清少納言は『枕草子』で、歌について、このようなこと言っている。

○その人の後と言われぬ身なりせば、こよひの歌を先ずぞ詠ままし。つつむことさぶらはずは、千の歌なりと、これより出でもうで来まし。

藤原俊成は『古来風躰抄』に、よき歌について、次のように述べている。

○歌は、ただ読みあげもし、詠じもしたるに、何となく、艶にも、あはれにも、聞こゆることのあるなるべし。

 

歌のさま(歌の表現様式)を知れば、心得なければならないのは、言の心(字義だけではない多様に戯れる意味を含む)である。

 

清少納言『枕草子』第三章に、当時の人たちの言語観を捉えた文がある。

○おなじことなれども、聞き耳ことなるもの、法師の言葉、男の言葉、女の言葉。げすの言葉にはかならず文字あまりたり。

(同じ、一つの・言葉であっても、聞く耳によって、意味の・異なるもの、法師と男の漢字文、女の仮名文である。この言語圏外の衆の言葉は、用いられない意味が余って・必ず文字を持て余している)。
 枕草子を書くに当たって、そこで用いる言葉には一つの言葉に複数の意味があり、それらが活用されてあることを述べ置いたのである。枕草子の散文も歌言葉と同じように聞くべきである。

無難に訳せば、(同じ言葉であっても、聞く耳によって、抑揚など発音の感じの・異なるものが、法師の言葉、男の言葉、女の言葉である。下衆の言葉には、必ず、長々と・文字が余っている)となるが、今更ありふれた余分なことを、歌言葉を心得た読者を前にして、わざわざ書くわけがないのである。

 

藤原俊成『古来風躰抄』に歌言葉について述べられた部分がある。

○これ(歌の言葉)は、浮言綺語の戯れには似たれども、ことの深き旨も顕れる(云々)

(歌の言葉は、軽薄で浮かれた、真実ではない飾った言葉の、戯れには似ているけれども、事柄の深い趣旨や主旨が顕れる)。
 このような言語観で歌の言葉に接するべきである。近世以来の学問の捉えた、序詞、縁語、掛詞などという規定は、「浮言綺語に似た戯れ」の波にのみこまれてしまうだろう。歌の解釈には役立たない。